別問題

「JIKOSEKININ」・・・、海外で日本語がローマ字表記された新しい言葉。今まで「karaoke」「harakiri」「geisha」などあったけど、日常会話の熟語がそのまま表記されたのはめずらしいのでは。それだけ海外から異文化のように扱われたのやけれど(当然といえば当然ではあるけど)

問題そのものをどうのこうの論じるつもりはないけど、不思議に思うことが一つ。「JIKOSEKININ」にしろ、「未納3兄弟」にしろ、問題をなぜ別々に論じられないのかなぁと。一部の識者の方の論理的展開では、「自衛隊派遣=JIKOSEKININ問題」と捉えてられないか?

自衛隊派遣は、それ自体が憲法やら国防やら国益やら違う視点で論じられる問題では。なんでJIKOSEKININ問題とごったまぜになるのかが疑問。「危険地域へのボランティア活動は欧米では尊び、その行為を国民は誇りに思うが、日本人はどう思うか?」って視点の議論は?って感じです。

また違う話題だけど、未納3兄弟問題もしかり。未納であるのは確かに問題だけど、それ以上になぜ「大臣になっている期間に未納が多いのか?」という共通項目にフォーカスをあてて、そこから制度そのもの問題点を改善する議論にならないかが疑問。まぁ、未納3兄弟の場合は「ほんまか?わざとちゃうん?」「納付管理を自分でできんの?」って思うことは多々あるけどね。

「日本人はある一つの事象に数個の問題が含まれている場合、それぞれを別視点から論じることが苦手なのか?」って思いません?この仮説にウンウンとうなずいていただけるなら、なぜなんだろう?日本人の文化(気質)、議論形成の手法(技術)、創造力の問題?

八百万の神といわれるほど日本は多様化された視点をもつ民族なのに、こと議論になると一元的になるのが不思議。


『「自己責任」とは何か (講談社現代新書)』 桜井 哲夫