「知ったところでどうなる」的脊髄反射

日本の論点の続きで、主観的感想。

読書中、中高生で習う数学に対する「知ったところでどうなる」的脊髄反射を想像した。でも、そうじゃないんだなぁって、ちょっとずつわかってきた。「興味という泉」に水を汲む第一歩がふめる。

うまくいえないけど、前回と今回のエントリー、僕が「論点」に拘泥する理由は、「書くための論点の設定がいかに難しいか」と痛感したから。書くには論点が必要で、論点には自分の意見(愚見であっても)が必要で、意見を述べるには判断が必要で、判断を形成するには知識が必要かなぁって、愚考した。

でも、いざ問題提議するようなエントリーを書きたいとなると、「知ってどうなる」的知識が必要になってくる。例えば、歴史問題ひとつとってもそう。日本の歴史を古代から現在まで一通り目をとおして勉強した、「つもり」。

なぜ「つもり」か?一眼レフでしか歴史を学んでいなかったから。政治学の視点、経済学を絡めた場合など、二眼レフでとらえていなかった。簿記でいうならば、「複式簿記」かな。例えば、「黒船来航」。「捕鯨」という経済事情からとらえると、「開国しろよー」っていう亜米利加の恫喝!?も少し違った毛色もみえてくる。

ところで、論点を設定する難しさから知識の獲得を昇華させていく過程で、今リアルタイムで経験していることがある。どうも、関心をもつ分野が収斂されていくような気配。関心のゆくえをフローで表すとこんな感じ。

書く→技術→論点→知識→論理→論理学→哲学・思想

例えば、今、経済関連の書籍を漁っている。経済の歴史を遡るとやっぱり随所に哲学・思想に影響をおよぼした人物が登場する。何というか、この土台をまず勉強しないと、設計図をもたず家を建てるような気がする。

正直、哲学・思想って、何から手をつけていいか、皆目見当つかない。この間も例の旭屋書店で棚とにらめっこしたけど、いつものようなインスピレーションはなかったし(泣。

「哲学する」って表現があまり僕には馴染まないし、プロのやることだろうって線引きしてる。何より哲学する読解力は、皆無なわけで。まぁ、まずは昔の人がどんなことを考えて、それらがどのように承継されてきたのかをわかりやすく説明してくれる書籍がないかな?

とにかく、論点を設定し、論理的に伝える力が欲しいし、切り込んでいく視点を身に付けたい。その基礎になる「興味という泉」に水を汲んでやりたいわけだ。

そう考えると、「知ったところでどうなる」的脊髄反射も少なくならないかなぁって、ちょっり期待。あっ、でもそうあがいても関心もてないことは、いっぱいあるな。むしろそっちのほうが多いのは当然か(苦笑)。