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[Review]: <じぶん>を愛するということ

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<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書 (1456))

前回のエントリーをふまえて雑感を書こうかと思ったけど、もう一冊レビューしとこ(笑)。初版は1999年6月、こっちを先に読んどけよなぁって一人ツッコミ。副題は、「私探しと自己愛」。「私探し」をしたい動機の背景をサブカルとリンクさせてフォーカスしていく。「私探し」を是非するわけじゃなく、「いつも自分にゆるやかな愛を注ごうよ」ってな結論。

「私探し」の時代──そのうち私は、「私探し」という言葉は、世紀末の日本に突然、生まれたものであるけれど、それは単なる偶然ではなく、多くの人がその誕生を待ち望んでいたところに登場したという必然性があるのではないか、と考えるようになりました。そして「私探し」が世に広まった背景には、90年代以前から連錦と続く「こころの歴史」のようなものとの関係があるのではないか、ということにも気づきはじめたのです。そうなると、大げさに言えば80年代のサブカル残党を気取る私にも責任の一端はある、ということになります。なぜ、人は「私を探そう」などと思うようになったのか。またそうやって「探したい」と思っている「私」とは、いったい何のことなのか。私は、「「私探し」探し」の旅に出てみることにしました。デイパックの中に詰め込むアイテムは、「80 年代サブカルチャー」と「精神医学・心理学」のちょっとした経験と知識だけです。

<じぶん>を愛するということ-私探しと自己愛

そもそも「私探し」の”私”とは、何か?それは、自分とは何かという「自分問題」。これを自我同一性、アイデンティティと呼んでいる。アイデンティティとは、アメリカの自我心理学者のエリクソンが提唱した概念で、一言で表せば、「自分が自分であることの感覚」。さらに重要なことは、「ただひとつ(=an identity)」だけ。子どもから大人にになることは、複数の「私っぽさ」から「ただひとつの私であること」にセルフイメージを統合させていく工程。

  • プロローグ
  • 1. 「もうひとりの私」を求めて
  • 2. 「かわいそうな私」の物語
  • 3. 「癒し」の正しい選び方
  • 4. 「アイ・ラブ・ミー?」
  • エピローグ

1992年に放映されブームとなったTVドラマ「ずっとあなたが好きだった」。主人公の冬彦さんへの感想を当時の女性に求めると、「異常」というよりも、「もしも私の彼が冬彦さんだったら」という自分の可能性を考えながら見ていたらしい。筆者は、当節(1990年代当時)ブームになっている「多重人格」が背景にあるのではないかと考える。

精神医学的見地から多重人格の歴史・兆候・原因・症状などを説明したあと、ダニエル・キースの24人のビリー・ミリガン〈上〉, アルジャーノンに花束をやロバート・レスラーのFBI心理分析官―異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記の事例を引用しながら、多重人格に対する日米間の認識・解釈の違いを説明。

  • アメリカ: 多重人格者は幼児虐待の犠牲者であるが、自分たちとは異質な存在
  • 日本: 自分たちと同じだと考えて、さらに特異な能力をもつ人格に目がいく

「多重人格」の他にも私探しに関係する心の問題が、ストーカーとアダルト・チルドレン。もともとアダルト・チルドレンは、医学用語ではなくアルコール依存症の人びとを扱っているカウンセラーやケースワーカーの現場からでてきた言葉で、”成人したアルコール依存症者の子どもたち”。そのような子どもたちが、大人になった状態で症候群となって現出しだした。クリントン元大統領もアダルト・チルドレンだったと告白。

近年では、その適用範囲が曖昧になり、親がギャンブルやドラッグ、仕事に中毒な場合も。日本では、変容して「シンデレラ症候群」なるものも。厳格な母親に育てられてきた子どもが大人になって(しかも30代にさしかかって)、突如、「お母さんの前の私は本当の私じゃない!」と。かわいそうな私。

心を癒すはずである「癒し」もポップな現象になって、売りものとしてかたちをかえる。

じゃ、私探しが迷路にハマらないようにするにはどうすればよいか?「私だけがふつうなのはつまらない。こんなはずじゃない」といった「誇大自己」をせずに、等身大の<じぶん>を愛すること。ただし、「自己否定」してはいけない。自己否定は、やがて誇大自己に反動し、セットになる。

「あー、もうダメだ!自分のしてきたことはすべて無意味だった。また一からやり直しだ」で全部を変えるよりも、ちょっとした軌道修正。「失敗したり挫折したりするのも自分、でもまたできることだってある」って認めたり。

ジャストサイズの自己にゆるやかな愛情を注ぐ私。そんな私だから、親も恋人も友だちも、きっと大切に思ってくれる。

1回目の感想、「そうかぁ、そうだよなぁ、ジャストサイズアイデンティティだよなぁ」って(笑)。2回目、「精神科医の先生ってミイラ取りがミイラにならないのかなぁ」と。”私”という個人の心の問題について、精神医学の識見を援用しながらサブカルを介在させることで、”構造化”しようとするのは理解できるかな。

ただ、1970年代生まれとして気になったのは、前提となるサブカルがすでに世代間の隔たりをもっているから、帰納的に論じても誤謬が生じているように少し思ったかな。些末だけど、ダニエル・キースやロバート・レスラーあたりを散見するとね。

あと、先生のお母さんの言葉、「精神科医は、他人のことはよくわかるが自分のことはちっともわからない」(同書,P212)にニッコリ。だから「世代対世代に向き合うことも含まれる精神科医って、自己成長のためのじぶん探しの連続なのかなぁ」って感嘆。

まぁ、結局は冒頭の「アイデンティティ」ではないかと。セルフイメージの統合。わがままという「個」じゃなく、社会に共有してもらえる「自分」。このへんは、リバタリアンとかって概念を介入させるとややこしくなるし、言説する能力は皆無なので割愛…..orz。

仏教関連の書籍をあさると解釈はいろいろあるようだけど、「天上天下唯我独尊」が言い得て妙だなって、あらためて考えさせられた。

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