マイノリティーにだけ熱狂的支持される漫画

さくらの唄(上) (講談社漫画文庫)さくらの唄(下) (講談社漫画文庫)

『さくらの唄(上) (講談社漫画文庫)』 安達 哲 , 『さくらの唄(下) (講談社漫画文庫)』 安達 哲 を読了して震撼。久しぶりに安達哲にどっぷり浸かってしまった。やっぱり壊れている、ナニか破綻している。同時に、ひかれた線を越えて惑乱した自分自身の青春時代の思考をよみがえらせてくれた。快感と悪寒がごた混ぜになった奇妙な感覚。

ストーリーとノーガキは後にゆずるとして、僕が安達哲の作品に初めて出会ったのは「キラキラ」。「キラキラ」については、超然としたレビューがあるので、そちらをどうぞ。すばらしいの一言に尽きるレビュー。

「キラキラ」の登場人物が、当時の僕と同じ高校生だったので、激しく感情移入したのを鮮明に憶えている。後にも先にもこれほど強烈に印象に残った漫画はない。僕と4つしか違わないハタチそこそこの若造が、ナマにえぐり出す”言葉”の一つひとつは、高校生の僕の胸に突き刺さった。

むかしほど漫画を読まない今でもいくつか収集している(ォ。というのも漫画が大好きで(笑)。小中高大は、漫画さえあれば一日過ごせた(w。残念なことに里に置いてきた(収納する部屋がなくて持って行けなかった)漫画は、もうなにが何だかワカランぐらいの冊数になったのを、弟が全部売り飛ばして、「一財産できた」ってほくそ笑んでいたらしい(泣

あれから15年経った今、また安達哲を読みたくなって「さくらの唄」を手にいれた。

富士桜ヶ丘高校美術部員、市ノ瀬利彦。暗澹たる青春を送る彼にとっての救いは同級生の仲村真理であった。太陽のような彼女とのつき合いを通じて、明朗な学園生活への期待を持ち始めた利彦は、文化祭で彼女主演の映画を上映しようと決意する。そこで彼は希望に満ちた毎日を手に入れることが出来るのか・・・・・。
文化祭用映画の撮影も順調に進む中、権力者である叔父の金春が後継者に利彦を選んだことで、すべての歯車が狂い出す。女教師との乱れた愛、仲村真理からの誘い、金春の仕掛けた裏工作によって権力の甘い誘惑に埋没しかける利彦。そして、明るい学園生活の象徴だった文化祭を舞台にあの想像を絶する出来事は起こってしまった・・・・・。

フェチズムな性的描写と表現のなかにチラリと表す10代の脆い感情。自分が正常かどうかに一喜一憂する精神状態の描写。

おそらく大半の人は読む気すらしないか、読んでも嫌悪感だけが残る下劣な作品かもしれない。残されたマイノリティだけが熱烈に支持する作品。

高校生の僕と現在の僕とでは、感受するモノが全く違うかもしれない。読了した感想として、「キラキラ」のレビューにある「ストーリーの持続力のなさ」と「台詞や場面のスケールの大きさに見合う展開力の無さ」が際だったのは否定できない。

僕自身はと言うと、正直、性的描写については、「巧みに描いているなぁ」「性的興奮とは違う高ぶりを感じさせる絵だなぁ」って程度。性的表現のセリフは、「そうそう10代のオレとまさに同じ」って抱腹絶倒。15年たってアカにまみれると、淫欲も変わるもんだって妙に合点した。

むしろそれ以外のセリフがこたえた。恋する女性に”platonic”と”lust”が交差する妄想。他者が突き刺す視線は自分ではないかという跼蹐と、他者が自分をどう思うのかに怯えるアブノーマルな精神。そんな状態を形容するために紡ぎ出された言葉に惹かれ、やるせなくなった。

それでもやっぱり叫ぶ。自分のメンタリティーは、「キラキラ」や「さくらの唄」にあると。今の自分は、そのメンタリティーを隠すのではなく、うまく振る舞う努力をしているかなって。それが2P and Double。マイノリティーかどうかは自分じゃわからないし、たとえマイノリティーを決定する基準があったとしても意に介さない。強がるなら、どっちでもいい。

つづけて、”lunacy”かどうかも。それほど沈思黙考しないしね。自分の日常にいつもある感覚(性)だから。ただ、感情が大きく振れるときはある。

エキセントリックかどうかわからないまま境界線を揺らぐ自己、自分でコントロールしずらい喜怒哀楽を素直に直感的に愚行できたのが10代なら、恥ずかしくて恐怖したのが20代、そしてうまくプレゼンする術を体得する期間が30代なのかな?って、初めて女性にコクるような気分…orz