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生きてこそって言葉はクサイですか?

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このエントリーと次のエントリーは、独善的告白です。人それぞれ違う「観」について言及するのでご容赦願います。「触らぬ神に祟りなし」かもしれませんが、沈黙の価値を承知しても、あえて破って問いかけます。

生きてこそって言葉は、クサイですか?ダサイですか?青二才ですか?理想ですか?

僕は、先天的病と後天的病・不慮の事故・第三者からの故意的犯罪によって尽き果てるのなら厭いません。もし、幸いにもそれらに遭遇しないなら、「物の順序」を守るつもりです。

その時、改めて『ああ、親父とお袋はもうこの世におらんのや』と実感するんですなぁ。そして、『次はわしやな』と。物の順序を間違えへんかったら『わしやな』という具合です。ですから、物の順序を間違えへんというのは、とってもだいじなことやと思いませんか?という話ですわ

「死ぬほど悩んだこと」がないから、どれほど苦しいのかわかりません。地位を失う恐怖。僕が事業に失敗して地位を失うのとでは、足下にも及ばない苦悩と恐怖なのだと推察します。

でも、問わせて下さい。死んだら何が生まれるのか?

この問いそのものが、「メノンのパラドックス」かもしれません。そうだとしても、答えを求めたいのです。

生きてこそじゃないですか?仮に、事破れたとしても、甘んじて受け入れ、次に備えればいいのではないですか?事は、そんな単純ではないのですか?

戦後まもなく生まれてきた方であれば、生きていくのはそんな簡単でもないし楽じゃないと肌身に感じられましたよね。荒廃から創造していく道程を目の当たりにしていれば、清濁併せのむ苦渋をご存じでしたよね。責任を忘れていたわけじゃないですよね。

生きてこそじゃないのですか。創造していく、承継していく、守っていく、破壊していくことができるのは。

数年前なら、こんな問いかけしなかったし、意にも介しませんでした。でも、自分がどうしたいのか少しだけわかって歩み始めました。同時に、「Ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country」を考えられるようになりました。ナショナリズムに陶酔するのではなく。

今、腑に落ちない、悔しい、狡いをはじめとする、「言葉にならない感情」が残っています。

どんな理由があれ、年間3万人以上の人が自ら絶っていき、先進国で群を抜いている異常な状況下、一人でも減らす側にたつのが、国を代表する人の務めではないでしょうか。

行く末を憂えるつもりはありませんが、生きてこそ、「この国のかたち」の大計を樹立してほしかったのです。

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