国家の罠追記

国家の罠レビューを書きながら、別に思索したことがあったので、とりとめなく書き綴ってみる。

今回、『国家の罠』を読み進めていくうちに、ある特徴(大げさにいうなら本質)に気づいた。それが「情報公開に必要なレトリック」だ。

稚拙な言い回しで申し訳ないけど、たとえば、「あなたは寛容な人だ」と言ったとする。これには、「あなたは何も考えてない人だ」というニュアンスがふくまれている場合もある。

愚鈍の僕が例えると"嫌み"になるけど、佐藤氏は著書のなかで「永田町言語」として解説している。

「東郷局長は元気かな。忙しそうなので、今度俺の方から挨拶に行くよ」という永田町言語は「東郷は最近どうも他の政治家のところをうろちょろしているようだな。すぐに俺のところに顔を出せ」と翻訳しなければならない。

さらに、多くの外務省の同僚には、この通訳能力は理解されなかったと加えている。

この引用箇所がヒントになって、「この永田町言語的翻訳が、著書全体を構成しているのでは?」と穿った。

著書には、佐藤氏が従事した対ロシア外交の内容が、詳細に述べられていて(国益を損なわないレベル)、「なるほど外交とはこういう小さな積み重ねの上にあるのか」と感心した。恥ずかしながらorz.

目に見えない小さな積み重ねは、当然といえば当然だけど、この手の内幕は、誰かが"情報"を公開してくれないかぎり、自分の目にはふれない。知らないから他者の推測にもとづく言葉が一人歩きし、それがイメージとなって誤解を生み出す。その推測を検証する力が求められるのはわかるんだけどね。

ここで重要なのが、「負の方向」に走らないこと。これまでも政界や官僚内部の実状を述べている書籍が数々登場したけど、それらは玉石混淆であり、「石」の場合は、公開というよりも、漏洩・暴露に近い。

その違いは、

  • 「自己保身・自己正当化・自己顕示」などの感情によって構成される物語=負の方向
  • それらの欲望をできるかぎり抑えて構成される事実=正の方向

じゃないかな。ただし、「正の方向」も、ともすれば、「美化」していると揶揄されかねないし、このあたりのハンドリングが「情報公開」の妙になるかと。

佐藤氏の場合、意地悪な言い方をすれば、永田町的言語翻訳のレトリックを駆使し、自分を含むチームの外交努力をできるだけ美化せず、国民やターゲットにしている読者(友人)に「情報公開」できたのじゃないかな。

今まで述べてきたことを、自分の仕事に置き換えると、「『国家の罠』のレトリックを使って、情報公開するのがいかに大切か」を学んだ。そしてそのための「視点」もおぼろげながらつかみ取れた。

たとえば、僕の場合、ウェブサイトの更新の中身そのものについては、他者にあまり事細かく説明しない。

実際、この間もあるクライアントに、「知らず知らずのうちに検索の上位にきているけどナンデ?」という質問をうけた。

「サイトの見た目も変わっていないが、中身が変わっている」というメインテナンスもある。これはクライアントも知らない。ページの追加に目を奪われがちなんだけどね。

でも、テクニカルな話をうまくできないから、今までその手の質問の解を敬遠していた。それも、今回のカルチャーショックによって変わりそうな予感がする。というか、変えていかなくちゃいけないのかな。

あくまで「正の方向」を忘れずに、余計な脚色もしないし、自分の仕事の成果を過大評価しない。

佐藤氏のようなレトリックを体得するには、何年もの年月が必要だと思う。単純に語彙力を増やしたり、アナロジーを鍛えるだけでもだめだ。もっと「視点」や「分析」、「構造的的解釈」も含めた僕自身の「人の幅」を広げていかなくちゃいけない。

それが、佐藤氏の造語にある「地アタマがいい人間」にあたるんだろうね。

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