馬上、枕上、厠上の「三上」

体に染みついた「クセ」は、なかなかアカ落ちしないものだと自嘲してしまうトキがある。自分の場合、「3分間スピーチを頭の中で組み立てること」がそれにあたる。

日常生活や仕事先のワンシーンにテーマがころがっていて、それを拾いあつめて「いかにひろげるか」と「メッセージは何か」を黙ってじっと考える。ただ、むかしと違い、今はあくまで頭の中だけの”作業”であり、実際にスピーチするわけじゃない。ゆえに、もし口を開いたら、すっとこどっこいな話し方になるだろうなぁと羞恥を覚えるオマケつき。

与太はここらに置いとくとして、この「クセ」に気づいた時からしばし首をかしげることがあった。それが、「なんで、こんな場所で考えがまとまるのか?」という問い。

たとえば、3分間スピーチの構成を練るには、「枕に頭を置いた」時が一番というジンクスが、むかしから自分にある。ちなみに寝付きはすこぶるよく、だいたい5分以内にオチてしまう:’-)

5分以内の「不自由な自由時間」がどうやらミソで、イメージトレーニングするにはうってつけらしく、自画自賛したくなるほど”チン”できる。なかなかコクのある味に仕上がる。ところがどっこい絵に描いたバカ、「翌朝」になるときれいさっぱりShift+Deleteなのである。

他にもクソミソの話で恐縮だが、洋式トイレに座ったあのニュートラルな時間。これが、魔法にかかったようにアイデアを生産する。というのも、当家はむかしから、父・私・弟と三人そろいも揃って、「長ク○」で、「ふんばらない」のがどうやら家訓らしい。おまけに毎日である。当時の毎朝のフン争を思い出すと、よくまぁ親子の縁を切らなかったもんだ。

そんなこんなで子供の頃からの習性を変えなくてはいけないような切迫した危機が、我が身にふってこなかったので、「あの部屋で何をするか」という遊びを会得してしまった。

ここで整理すると、枕も厠も自分にとっては、ニュートラルかつプライベートである。置換すると、時間と空間に”空白”が生まれたような感覚だ。だから、その空白に何かを埋めようと頭を働かせようとするんじゃないかと自己分析している。ネタになるのが、「なぜ」と「どうしよう」のドリルであり、それを解くのに最適な状況なのかもしれない。

この背景には、これまた自分の悪癖があって、とにかく何か「アレ?」って感じたら、頭の引き出しにしまうようにしている。別に、始終それについて思慮を巡らすわけじゃなく(そんなエネルギーもないし)、とりあえず、「なんだろう」程度に道筋を立てておいて放置しておく。それから、最適な状況になったら、また引っぱり出す(出し入れのリピート)なんて悪習をもっている。

そんなわけで、枕と厠が最適化なんて自分だけなのだろうかと、長年腑に落ちなかったわけだが、先日、キチンと落としてくれた。

続「超」整理法・時間編―タイム・マネジメントの新技法

不思議なことに、アイディアが出やすいのは、メモがとりにくい場所だ。北宋の文人政治家欧陽修は、優れた考えがよく浮かぶ場所として、馬上、枕上、厠上の「三上」をあげた。私の三上は、少し違うが、メモがとりにくい場所である点では同じである。

一読して、思わず「ヘウレーカ!」と叫んだ(ツッコはナシということで)。なるほど、そんなものか。残念なことに、乗馬をたしなまないので、自分は”二上”かと、変なところで負けず嫌いをチラリズムした己が香ばしい。

「シンキング」を形にできなかったり、実践しなければ絵に描いた餅にすぎないのは当たり前の話で、なによりも以前に、忘れてしまっては落語のオチにもならない。

で、どうするか?ここで、引用箇所にも記されている「メモ」がキモになる。今ならICレコーダーが代替品としてストライクゾーンも、その前にちょっと待てと左脳がつぶやく。

「単にメモをとって備忘するだけでは、断絶してしまう。時間・閲覧・検索を包括した連続性のあるチャンクにできないだろうか」

プライオリティは自分の思索をとぎれさせない。次に、書類と同じように探したくない。そのメソッドとしてMovableTypeを即座にピックアップするも、あにはからんや、PukiWikiのほうが今回のアウトプットにあっているような感触。そいでもって試行錯誤。これに、アナログ手帳を連動させた「デジアナ版Getting Things Done(=GTD)」を構築中。目下、時間を空間に擬似的変換して俯瞰図を作成できるかが、KFSなのではと見立てている。

コレはいけると実感できたら、先の問いの動機とあわせて公開予定って、いつになることやら=:-)