またこんな話もある。以前聞いた話だが、中曽根康弘元首相が退任直後に外遊をした際、飛行機内で、熟睡。目が覚めたときは着陸態勢に入っていた。そのままタラップを降りようと身支度をしていたところに、一人のスチュワーデスが近づいてきた。「ネクタイが曲がっていらっしゃいます」と彼女はおもむろに手鏡を手渡したそうだ。なんと鏡に写し出されたのは、寝癖で乱れていた髪の毛だったのである。
via: FujiSankei Business i.BLOG|石橋眞知子のよのなか万華鏡: サービスはマニュアルより機転
テキストになると、サラっと流し読みしてしまいそうだが、少し目をとめて情景を想像しながらふくらませてみると頭の体操にちょうどいい。たとえば、
- いつから気がついていたのだろうか?
- なぜ、直接的な言い回しをさけたのだろうか?
- どのように目的と伝達の手段を選択したのだろうか?
どれも彼女から直に聞かなければ、解なんてだせない。とはいえ意外と、「むかし先輩が同じ経験をされた話を聞いて」なんて答えもアリかと。俗っぽくて乙だなぁと、妙に納得するかもしれない。
「機転」とは言い得て妙、コクリと頷いてしまった。ただ私の場合、揚げ足をとってスカタンを述べるなら、「サービスはマニュアルと機転」ではないかと思う。
マニュアルの弊害が指摘されているのは承知しているし、さらに最近では、「日本語のさばき方」にまで累を及ぼして、テレビ視聴率を稼ぐ格好の「釣り」になっている。どうせなら、現代人でも古典を読める世界的にもめずらしい言語というアプローチからコンテンツ制作してほしいとべらんめえ調でツッコんどく。
いけない。話を本筋に戻すと、マニュアルの弊害よりも、マニュアルから何も感じとれない力の問題はどうだろうか?
後れているというよりもマニュアルがないんです。日本にあるのはマニュアルではなく、教本なんです。このグラスの名前は何か、このテーブルは何と呼ぶか、といったことが書かれている教本です。つまり、静の状態なんです。ところが、外国のホテルでは、お客さまがフロントに来たときまずどう対応するか、お客さまをエレベーターにお連れするときはどうするか、といった動きのあるマニュアルなんです。
「動きのあるマニュアル」と「機転」がリンクしないかなんて考えている。
そもそも「機転」とは何だろう?そして、それはどこからやってくるのか?それを支える背景は何か?が頭から離れない。なぜなら、かくゆう自分が「機転がきかない人」だから。さっぱりわからん。激しく結論がぶれそうな予感がしてきた……、っつうか見えなくなってきた、まぁいい。
たとえば、「”1″の仕事を頼まれたら、それを”1.5″ぐらいにして渡す」ことは、手前味噌ながら可能だ。数年に1回あるかないかの大当たりがくれば、2はいけるかもしれない。
しかし、1.5も2もどちらにせよ”作業の上乗せ”的仕事であって、「機転がきく人」の仕事を観察すると、そうじゃない。おおよそ”3″ぐらいから渡しているような気がする。
つまり残りの1は、作業ではなく”暗黙知”と言って良いのか。とにかく量でも質でもないし得体が知れない。まるで将棋の十手先を読んでいるような行動である。数分後、数時間後、数日後に相手が反応する様をタイム・マシンに乗って見てきたかように頭の中で描写し、それを忠実に実行できる能力なのかもしれない。
結局、「機転を支える背景は何か?」がチンプンカンプンであるから、三十路をとうにこえているのに、父親から名前を呼ばれるとき、弟は「クン」付けなのに、己は「よびすて」されるような精神的右ジャブを食らわされるのだとだけ氷解した。
ですからマニュアルの意義をちゃんと理解しなければなりません。そのためには働く人間が哲学的なバックボーンを持っていないといけません。信念というか、自分という人間のベースをしっかり持つことです。そうしたバックボーンを持って自分を組み立てていかないと、サービスは間違った方向にどんどん行ってしまいます。(同書)
この文脈の意味をわかるには、はるか先になりそうだ。