結局読書は読むだけでなく、ことはじめ

いくら読んでも読むだけではどれほどの効果があるのか。やっぱり「体得できるように、事をはじめる」のでなければ本末転倒だろう。

読書は消費?投資?お小遣いを回せない

1.お小遣いがナイ。んな、本ごときに「消費」できるかよ。
2.時間がナイ。家事の手伝い、子育て、家族サービス。

YOMIURI ONLINEの記事に触発されて、「本を読まない理由」を書いてみると自分の考えがまとまった。前二つのエントリーは、読売新聞社の調査に対する諧謔をこめた第三次反抗期なレトリック。なるほど、対偶チックに考えると、”とどのつまり”が導き出される手応えはあったわけか:-}

文章読本

結局、「読む行為」を推し量る定量的データではなく「読んだあとの行為」、つまり「何を”ことはじめ”するか」が肝要ではないだろうか。「冊数×時間」は知識の収穫をもたらしてくれる。しかし、それはあくまで「収穫」にほかならず、手をつけなければ、いずれいたんでくる。自分の血肉とすべく「消化」しなければなるまい。

チボーデは小説の読者を二種類に分けております。一つはレクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他の一つはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説といえばなんでも手当たり次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」という定義をされます。新聞小説の読者の大部分はこのレクトゥールであります。一方、リズールとは「その人のために小説世界が実在する人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど、小説を深く味わう読者のことであります。『文章読本』 P.10 三島 由紀夫 (著)

高校の時、祖父が読んでいた『人を動かす』(D・カーネギー)を渡され、同じ時期に購入した『どうすれば最高の生き方ができるか』(ノーマン・V. ピール)とあわせてページをめくっては、試してみてよく分からず、挫折し途中で投げ出し、またページをめくったように覚えている。

「無知の知」すら知らずに「人を動かす」ことを実践している”フリをしている”自分に陶酔していた。それでも、自分で本を買うこともままならなかった当時、「質×時間」の読書ができていたと思う。

今は、時間も資本も手元にある。が、何かあの時が懐かしいのはなぜか。わたしには”リズール”なんぞ別次元の世界であるし、何より三島由紀夫が述べている「精読者」の本当の意味すら理解できていないだろう。それでもいつの日か「小説」以外でもかくありたいと切望している。