今はカオスなんだよ我慢しな


“何か”を知るには、自分が”何を”知らないのかを知らなければならないんだ。じゃぁ、なぜ、知らないはずの”何を”知らなければならないと知ることができるの?もともと知らないモノなのに。

この絡まった糸をひとつひとつ解きほぐしてくれるのが、「言葉」と「思考」じゃないか?自分が何を知らないかを、過去の経験と知識から類推し、「”何を”知る」には、どのように接近していけばいいかを紡いでいく。前進と後退にもがきながら。

そして知ることができたら、次にやってくるのは「わかりたい」という欲求かな。この「わかりたい」には二つの性格があると思う。一つは、「何もわかっていないからわかろうとする」こと。もう一つは、「わかったふりをしているけどわかりたい」こと。

前者は、言葉と思考にとって心地いいんだよね。例えば『進化』ってどうだろう。自分はこの単語を知っているけど、意味は全くわからない。だから、積み木をひとつひとつ積み重ねるように「わかろう」とする。時に疑問を浮かべながら。

でも、後者は少々やっかいだ。「わかったふり」をしている自分。「わかったつもりで」いる状態。これは自分の思いこみを壊さないと、まず”わかるための疑問”がでてこない。

この壊すという行為がツライ。何よりもコワイ。とはいえ、無限にある事象を理解しようなんて不可能だって前提も置いている。

今は後者の行為に時間を割いているんだろうな。つまり、 “何か”を知るにしたがい、わかったつもりを排除すべく過去の自分を壊していく。すると今度は他者との接触が怖いんだ。

今まで自分があたりまえだと考えていたことが、そうじゃなくなり、表現のひとつひとつに不安が襲う。

でもね、これもカオスなんだよって自身を叱咤している。このカオスがいつまで続くかなんて知るよしもない。またそんな愚かな不安をいだいたところでどうなるわけでもないし。

むしろカオスを堆肥としてカオスが小さくなるように修養できたら、それが小さくなるに比例して、幹のしっかりとした「言葉」と「思考」が自分の中に蓄積されるんじゃないか、って愚慮を重ねている。