自らを値決めする

自らを値決めする苦労を体得してこそ、価値創造へ真摯に向き合うのではないだろうか?

「もし院長先生からインプラントの価格整合性について尋ねられたら、シンクセルさんはどう答えますか?」

昨日、ある企業のサイト更新のミーティングをしていた時、先方から受けた質問だ。

コトラーのマーケティング・コンセプトまぁ、ぶっちゃけ、もし院長先生から「インプラントの価格っていくらぐらいが妥当だと思う?」みたいな問いがあったらどうするよ風な問い。前提の質問そのものがドクターに笑止千万と哄笑されそうなのはご愛敬。

かつてのわたくしなら、「そうですね、だいたい平均○○円というデータですから…..」からペラをまわして最後に結論をノーガク。しかも平均○○円に可もなく不可もなく落ち着く実に香ばしいトークで、ナニを言いたいのかサッパリわからん、典型的すっとこどっこいのアンサーとなる。あっ、すっととこどっこいなのは今も変わらん:’-)

だが、今なら答えは違う。迷惑で無責任な自分だよって心中問答しながら一言、「院長先生がお決めになった金額でいいんじゃないですか」

オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)は、価格と価値が大きく異なることを、次のような言葉で表現している。「ものごとの上辺しか見ない人間は、あらゆる物の価格は知っているが、何物の価値も知らない」。あるビジネスパーソンは、自分がめざしているのは、正当な価格以上の価格をつけることだ、と私に語ったことがある。『コトラーのマーケティング・コンセプト』 “価格” P.176

自分が独立して何よりも悩み、髪の毛を波平さんに一歩また一歩近づかせ、今もその恐怖に怯えながら悩み続けている(どっちに悩んでいるんだ?)のが、「自らを値決めする」だ。正直、これほど悩む自分は根本的な能力が欠けているのだとなかば自嘲気味。

会社勤めのときは、「会社が用意した価格や基準となる価格」があった。また、「確認を依頼できる他者(=判断をゆだねる上司)」がいた。正直、情けない話を晒すと、自ら価格を決定しなければいけないと身体は感じつつも、頭がフリーズしていた。

それが今はとなると、価格と価値の相対性を熟考し、その結果はじきだされる “請求額”に納得してもらうにはどうすればいいかを味わっている。そして、価格ばかりにうつつを抜かすと、今度は、

「わが社より5%安く売るところが出てきても、何の心配もない。私が気にしているのは、わが社よりも優れた経験を提供する企業が現れることである」 Amazon —– Jeff Bezos

の言葉を思い出し、反省のちときどき自虐の週間予報をだすハメになる。

フリーランスになって以来、「価格」という言葉ひとつが、マネジメントのサイクルに深刻な影響をもたらすのだと肝に命じた。今は、「価格」とまっすぐに向き合い、常にどう対処すればいいのかを考え、実践するのが日常化してきたようだ。

すると、どうなったか?

意識がパラダイムシフトした。ぶっちゃけ、価格と価値が青天井になり、ありえねぇ話、「○○のウェブサイトを制作したけど1千万請求できるか?できないならどんな価値が自分に足りない」的発想になる。「○○円の仕事は、大体こんな感じかな?だったらこれぐらいの業務(量と質)にしとこ」の思考と真逆である。「”価格”ありきの”価値”」から「”価値”ありきの”価格”」になるし、そうなると、ビジネスにできる幅が広がってくる。

先週の土曜日、ある歯科医院の先生から(M先生、お引き合わせの準備を少しずつ進めています)「コンサルタントとして税理士さんとの打ち合わせに同席してほしい」という要望があり、1回だけご一緒させていただいた。その時、まさに「価格」に対して頭がフリーズした応対を目の当たりにしてデジャブにはまり、マトリックスにトリップした。

ここから先は具体的体験談として万難を排して書き上げたい気分であるが素面では到底書けまい。また、本ブログを以前お世話になった会社の上司や先輩、後輩もご覧になっているらしいと耳目しているので、下手に書いてこれ以上ツンツルテンにもなりたくない。

というわけで万が一、強いご興味をお持ちいただけたなら、ご一報あれ。酒の席で酒の力を借りて漫談してみたい。