成熟した論理を身にまとった二人の女系天皇論

『国家の自縛』の佐藤優氏と『国家の品格』の藤原正彦先生が、女系天皇について言及している。成熟した論理を身にまとったご高説は、ともに「女系天皇反対」で一致している点が興味深い。ただ、佐藤優氏の方はインタビューアーの表現が”女帝”となっているので、「女性天皇と女系天皇」を峻別しているかわかりません。

重要なのは日本国憲法で象徴天皇制といっても天皇は人間じゃないんですよね。人権がないんです。これこそが皇祖皇宗の伝統だと私は思うんです。女帝論の根底にあるのは人権という発想です。天皇制の中に部分的に人権というものを入れていくと、それは内部から壊れていくと思います。そうした場合、日本の国家のあり方が根本的に変容してしまう。『国家の自縛』 佐藤 優 P.214

藤原先生の主張は、産経新聞平成17年12月7日付朝刊『正論』(Let’s blow!毒吐き@てっくさん参照)にあります。下記に引用しますが、リンク先の記事を一読していただきたい。

そもそも皇族は憲法の外にいる人である。だからこそ皇族には憲法で保障された選挙権も、居住や移動の自由や職業選択の自由もなく、納税の義務もないのである。男女同権だけを適用するのは無茶な話である。伝統を考える際に、憲法を原点とするなら、憲法改正のあるたびに考え直す必要が生じる。憲法などとういものは、歴史をひもとくまでもなく、単なる時代の思潮にすぎない。流行といってよい。世論などは一日で変わるものである。憲法や世論を持ち出したり、理屈を持ち出しては、ほとんどの伝統が存続できなくなる。伝統とは、定義からして、「時代や理屈を超越したもの」だからである。これを肝に銘じない限り、人類の宝石とも言うべき伝統は守れない。

一方で有識者会議の見解:

過去において、長期間これが維持されてきた背景としては、まず、非嫡系による皇位継承が広く認められていたことが挙げられる。これが男系継承の上で大きな役割を果たしてきたことは、歴代天皇の半数近くが非嫡系であったことにも示されている。また、若年での結婚が一般的で、皇室においても傾向としては出生数が多かったことも重要な条件の一つと考えられる。

があり、「そこまでして皇祖皇宗を維持せざる得ないなら、より継承しやすいシステムを構築しようではないか」と着地するのも頷ける。

両説を眼前にして、まず、愚生は内田樹先生の書籍から受けた薫陶を反芻するのであります。それは、古典を読むときの姿勢であり、自分なりの解釈を講じるならば、「自分の時代の制度や通説・価値観・常識をもってして古典を読んではいけない。自身の貧困なる想像力を駆使して当時の動態を読み取らなければならない」

あらためて有識者会議の見解に問いたいのは、その着地点を真逆に考える立ち位置もありうるのではと吟味されたのでありましょうか。

「側室であろうと非嫡系であろうと、なりふりかまわぬ尽瘁があったからこそ万世一系を保たれたのではないだろうか」

という見立てを変えた想像力であります(愚生が指摘するまでもないが)。

その尽瘁たるや想像しうるはずがなく、もともと心象化するための経験も言葉も思考も持ちえない。そこまでして保たれた万世一系だからこそ、大正十一年に来日したアインシュタインは、彼独特のリップサービスも含みつつ敬意を払ったのではないかと愚考するのであります。

「近代日本の発展ほど、世界を驚かせたものはない。万世一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私は、このように尊い国が世界に一ヵ所くらいなくてはならないと考えていた。世界の文明は進み、その間、幾度も戦争は繰り返されて、人類が戦いに疲れるときがくる。そのとき人類は誠の平和を求めて、世界的な盟主を奉戴しなければならない。この世界の盟主は、武力や金力に依るのでないのはもちろん、あらゆる国の歴史を凌駕して最も古く、また尊い家柄でなければならない。それこそが日本の皇室である。……我々は神に感謝する。人類に、日本という尊い国をつくっておいてくれたことを……」

情緒を形成し、この礼讃に易々と依拠してはならないと己を戒める一方、下品な卑しい腹心を表にさらけだすとしたら、国内に限定した今の思潮ではなく、世界からみた日本の国体とその国体から生じる国益にのっとって省察してはいかがでありましょうか。

早計に結論を出すのではなく、二千年前から今にいたるまでの規矩について識者の方々の優れた想像力を総動員しながら。