九十九の偽物とひとつしかない本物

バカね、私。あの人もバカだけど、私はそれに輪をかけたバカだと思うわ。何度も嘘をついた。好きな人ができたからって。あの人に愛情があるのなら、私を抱き止めてくれると思ったから。ぜーんぶ、嘘。あの人のほかには、男なんてひとりもいやしなかったわ。私が嘘の告白をするとね、あの人ったらあわてるかと思いきや、「あっ、そう。がんばれよ、佐伯」て、それっきりここにもこなくなっちゃうのよ。で、しばらくたってから、嘘の失恋をまた慰めてもらうってわけ。椿山課長の七日間

佐伯さん、椿山課長を存じ上げませんが、ワタクシも"バカ"であります。嘘に気づかぬバカであり、見抜いたうえにバカを演じるバカもある。さらに、愛情を抱けないけれど、さりとて離れられずにいて、「肝心要の時から逃避する」臆病なバカでもあります。

それが「腐れ縁」なのではないでしょうか?

ワタクシからすると、「腐れ縁」でも途切れなかったとしたら、そちらが羨ましい。本当に腐って目の前から消えてなくなり、「ウソかマコトかを彷徨う臨界の記憶」だけを抱えなければならないのは、あまりにもツライ。

記憶を頼りに「後悔」できるならそうしたい。でも、「後悔する勇気」すら持っていないジブンと向き合うのにどうしたらいいでしょう、佐伯さん?

いい、ツバキさん。この世に百の恋愛があるとする。でも、そのうちの九十九は偽物よ。なぜかって、自分のための恋愛だから。私は、百のうちにひとつしかない本物の恋をした。それは、すべてを愛する人に捧げつくせる恋愛です。あの人のためなら命もいらない。お金も、誇りも、私自身の恋する心すらいらない。

ステキです。「百のうちにひとつしかない本物の恋をした」と気づいたことが幸運ではないでしょうか?

「本物」に出会うことなく終わる恋愛もあれば、本物だと勘違いして幸せになる恋愛もある。そして、「本物」が何かすらわからない恋愛が「本当」かもしれない。

さらに、「気づいた」ときにはすでに失っている恋愛もある。

「ひとつしかない本物の恋をした」と確信したのちに失ったときの喪失感と、失ったあとに「ひとつしかない本物の恋をした」と気づいたときの絶望感、どちらが幸せでありましょうか?

涙があふれ、ふさぎこみ、うちひしがれることができる「絶望」は感情の表現にしかすぎない。絶望があるかどうかすら定かでないけれど、もしあるとするのなら、「ああ、そうか」とストンと腑に落ちる、いわば、「いかなる感情も表現すること」を停止する状態、「しびと」のようなジブンがそこにいる。

そんなジブンにもう二度と出会いたくない。そのジブンに出会わなくできるのであれば、なんだってする。お金も、誇りも、ワタクシ自身の恋する心すらいらないのであります。

もう失いたくありません。