「会議の数が多い=頭がいい人」の錯覚

「頭の中の硬直化」を"自覚"するにはどうすればいいのか?「頭のわるい」ワタシからすると、「頭のいい人が自覚する」処方箋を書いてほしいと切に願うのである。

頭の良し悪しと、学歴があるなしとは、まったく独立していることを理解すべきだと思います。東大を卒業して大企業に入り、出世した人はたぶん、頭がいいと本人も周りの人たちも思ってしまっているのですね。しかし、そんなに頭がいい人たちばかりだとは、私は思いませんね(笑)。というのは、むろん頭がいい人もいるにはいますが、部下が多いとか、会議の数が多い、その会議を取り仕切っている−−−そういうことで頭がいいと錯覚している人が実に多いからです。彼らは、限られた仕事空間の中で現実的にはくり返ししかやっていないので、頭の中が硬直化しているわけです。『定跡からビジョンへ』 P.214

たいへん主観的な物言いをつけると、『「頭のいい(・わるい)」のたとえ話は、「頭のいい人」からしか見聞したことがない』のである。

(意訳気味に言うと)「頭のいい・わるい」を峻別できる人は、すでに「頭のいい」の基準を暗黙知として所有している。しかも、その人たちが指す「頭のいい人でない人」も世間からすると、「頭のいい人」に分類される(と思っている)。

というわけで、「頭のわるい」ワタシからすると、『「頭のいい(・わるい)」のたとえ話は「頭のいい人サロン」なるものがあって、その中での「痴話喧嘩」でなかろうか』と妄想してしまう。

しかも、「痴話喧嘩の中身が羨望の的になっている」と頭のいい人が無自覚的に自覚しているから、セレブ系コンテンツとおなじく、「商品」にできるのではないか。

話が妬みのほうへいきそうになるのをもどさずに、もういっちょアクセルを踏むと、「痴話喧嘩」と例えたのは、「頭がいい(・わるい)の基準には、無意識的な"好き嫌い"がふくまれているだろう」と幻想的仮説をたて、「頭の中が硬直化している"頭のいい人"が嫌い=私のなかでは"頭のわるい人"だ」なる等式を成立させていると、嫉妬するからである。

さらに、もうひとつ。おおよそこの手の話には、「頭のいい人」への処方箋が書かれていないことにいささか不満である。だから、(しつこいぐらいのジェラシーをこめて)頭のわるいワタシは、頭のいい人への適切な対応が見当つかなくて、苦慮してしまう。

引用箇所で例示するなら、『「限られた仕事空間の中で現実的にはくり返ししかやっていないので、頭の中が硬直化している」頭のいい人が、硬直化していると自覚するには何をすればよいのか』への処方箋だ。

ワタシの仕事をふりかえってみる。「打ち合わせ→サイト更新ページの制作→サイトアクセスの分析→打ち合わせ」といった具合で、構造的に見事なぐらい"限られた仕事空間"のなかで&quotくり返し&quotしかやっていない。だから「頭の中が硬直化している」と自覚している。

自覚するのはナゼか?

自覚しないと食べていけないからである。もし、「いつもの場所にいつもの餌がある」と餌付けされ、「餌付けされているワタシ」を疑わなければ、その餌がなくなったとたん餓死してしまう。だから、食べられるためにつながることならなんであろうと知りたいし、あわよくば、狩りの方法まで教授願えるならば、厚顔無恥よろしく舌なめずりするのである。

くり返し言う。頭のわるいワタシからすると、頭のいい人サロン内の人たちが自覚するための「処方箋」を書いてほしいと切に願うのである。それは、頭のいい人の意味と基準を知りたいからではない(裏をかえせば知りたいという悋気だなぁ)。

頭のいい人が「ドコ」で「ナニ」を食べるのかを知っておかないと、ワタシが食べられなくなるからである。

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