diary

自分だけが苦しいのじゃない

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律しているつもりでも、一人でいると”自分だけが”の疑念と”他者へ”の嫉妬を抱いてしまう。そしていつの間にか「下を向いている」のだ。そんな愚生に「前を向く」よう説いてくれる方がクライアントであるところに、望外の幸せがあり、己の未熟さを痛感する。

一昨晩、サイト打ち合わせのためM先生を訪問。先生との打ち合わせは、1時間もかからない。「何をすべきか?」の論点もはっきりしている。だから打ち合わせの主な内容は、要点の整理と確認となる。

終了後、馴染みのお店へお誘いいただいた。どちらかというと、打ち合わせ終了後の”話”のほうが、先生にとって「何か」を得ていただいているような感がある(勝手な推測です)。何に価値を見いだしおられるか愚生ごときでは思索する術も知らないが、「何か」を得ていただくんだぞという意識だけは念頭に置いている。

ところがここ何回かの”お店での話”は、コーチングしていただいているような毛色が漂う。そのたびに、「ああ、まずい」という後悔まではいかずとも、反省する。

前置きはこれぐらいにして、少し自分の思いを整理してみたい。

愚生は、出口戦略を持って仕事をしている。ここでの出口戦略とは、「廃業」を意味する。もちろん、廃業にむかって仕事をしているのではない。「もし、廃業するとしたなら、クライアントにかかる迷惑を最小限にするには何をしておけばいいのか」を考えている。一方で、選択するオプションの一つであるという現実も認識している。

このスタンスに、M先生は冷静に接してくださる。「つきはなす優しさ」で接してくださる。「そんなことないでしょ」や「何を言うてるんですか」といった世辞や、「シンクセルさんならできる」といった言葉は決して発せられない。

だからこそ先生の「厳しい優しさ」に深謝する。何も言葉がみつからない。

なぜ、「自分だけが」といじけるのはわかっている。それは、己の矮小な価値基準のなかで、「食っていけてない」と感じるから。食っていけていないからお金に拘泥してしまう。拘泥するから、いつしか「お金自体」が目的になってくる。

「とにかく稼がないといけない」という欲望と焦りが、「自分は何をしたいのか?顧客にどんな価値を提供したいのか?」という内包を凌駕する。

その瞬間、「自分だけが」の世界に埋没し、負の方向へ視線がさまよう。そして、下を向く。決して前を向いていない。向いたフリをしているだけ。それは、「苦悩」ではなく「ひとりよがり」なのだと気づかない。

食っていけていないのは、己の努力が足りないだけ、才覚がないだけ、身の丈を把握していないだけ、地に足がついていないだけ、とわかっているつもりでも、本当にわかっていない。直視する勇気をもっていない。

だからこそ、気づかせていただけることに何度も何度も頭を垂れる。でも、気づいただけでそうそう喜んでいられない。

できるかどうかは愚生次第であるけれど、いつしかM先生に、「最高の品質とその対価(ここではこだわってませんよ)を提供できるようになって、M先生に心底喜んでもらえる」のが、当面の目標なのかもしれない。

今年は開業して3年目。昔お世話になった会社の会長の言葉を思い出す。「新規事業は3年は我慢して見守っている。それぐらいはかかるんや」と。言葉の裏を読み取れば、「3年やってあかんかったら」もまた然り。

前を向かなくては。さもないと何も見えてこない。

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