事実と仮説の混淆

眼前で繰り広げられる報道について、報道している側をわたしの「顧客」と仮定した場合、顧客に求めるものは、「事実の特定」であって、予断や意見を含む「仮説の説明」ではないのではないか?あくまで「仮説」をたてるのは自分なのだから。

「事実」と「仮説」を混淆している顧客に遭遇すると、何が事実で何が仮説なのか困惑してしまう。自分の理解力不足も相乗するから惨憺たるありさまだ。

(解説者や論説者の)意見について、受け入れる[受容]・噛み分ける[吟味]・切り捨てる[捨象]といった選択ができる。それらの選択のためにも「何が起きたのか」を把握しなくてはいけない。その「何が起きたのか」を特定する作業が、"かかわる"ってなるのか?

一億総マーケター時代の聞く技術―「明日の売れ筋」をつかむプログラムかかわる時、双方向性をもつ手段なら「問いかける」こともできる。しかし、一方通行の手段ならそうはいかない。あたりまえの性質なので合点はゆく。とはいえ、一方通行の手段をもつ顧客のほうが大きな影響力をもってそうだからややこしい。このあたり、自分がとる作法は、聞く耳もたずか、理解に努めるか、逆ギレするか、はたまた沈黙するか、どれが最適なのだろう。難しい。

まぁ、報道している側を「顧客」に仮定する前提が、トンデモなんだろう。リテラシーなんてコトバも知っちゃぁいるけど、グチりたくなる気分。同時にやっぱり"コチラ"側の読解力なんだろうと自戒。

顧客の誰もが企業に直接コミュニケーションをとることができるようになり、ビジネスパーソンの誰もが顧客との接点に立つことになった。大宅壮一の「一億総評論家」になぞらえば、いまは「一億総マーケター」ともいうべき時代なのだ。一億総マーケターの時代に、企業には顧客と対話する技術が必要だ。それが、顧客の声をマーケティングに活かす「聞く技術」なのである。『一億総マーケター時代の聞く技術―「明日の売れ筋」をつかむプログラム』 P.4