母国語がわからない、内田樹先生と毎日新聞社説

内田樹先生の「まず日本語を」を拝読し、その後、毎日新聞社社説「読書感想文 本の楽しさ大人が伝えよう」をざっと読みとおした。テーマが違うので対比できないが、社説に違和感をおぼえた。

創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される 内田樹先生「まず日本語を」

「経験される」を問いただしてくれるのが書籍であって、(その書籍を除けば)他の書籍は知識の獲得ほどか。社説に言及すれば、この社説自体が、書くために書いているような印象をうける。「雛型」のよう。

「創造」するには、母国語の運用能力が問われる。その能力を習得するには、「訓練」だという主張に説得力を感じる。「訓練」とは、ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うことだ。

文章読本一方で、「訓練」はとかく受動的立場に己を追いやり、それをいつしか嫌悪するようになるまいか。なぜ「訓練」しないといけないのか、という疑念をいだく前、「習慣」にしてしまうぐらいの幼児期から仕込まれていれば、「九九」かもしれない。仮に習慣であろうと、「なぜ」という問いに、情緒豊かな口ができる「大人」を必要としている。

右、余談。三島由紀夫の『文章読本』に引用されている森鴎外『寒山捨得』のくだり。

閭は少女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸を捧げて、ぢつと閭を見詰めた。清浄な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも好いのである。

「水が来た」に言葉にできない"何か"を感じた。もがいてみたが、いまだできない。とにかく自分には異様な表現だ。あまりに単純化されている。

文章読本もうひとつ。谷崎潤一郎の『文章読本』のなかで、自分が知らない国語を知ったくだり。少し長い。

元来、われわれの国語の缺点の一つは、言葉の数が少ないと云う点であります。たとえば独楽や水車が転るのも、地球が太陽の周囲を廻るのも、等しくわれわれは「まわる」もしくは「めぐる」と云います。しかし前者は物それ自身が「まわる」のであり、後者は一物が他物の周りを「まわる」のでありまして、両者は明らかに違っておりますが、日本語にはこう云う区別がない。が、英語は勿論、支那語でも立派に区別している。支那で日本語の「まわる」もしくは「めぐる」に当る語を求めれば、転、旋、繞、環、巡、周、運、回、循等、実にその数が多いのでありまして、皆幾らかずつ意味が違う。[…..]また桜の花の咲いている花やかな感じを云うにも、日本語では「花やかな」と云う形容詞しか思い出せませんが、漢語を使ってよいとなれば、爛漫、燦爛、燦然、繚乱等、まだ幾らでもあるでありましょう。さればわれわれは「旋転する」「運行する」等の如く漢語の下へ「為る」と云う言葉を結び着けて沢山の動詞を造り、「爛漫な」「爛漫たる」「爛漫として」等の如く「な」や「たる」や「として」と結び着けて無数の形容詞や副詞を作り、国語の語彙の乏しいのを補って来たのでありまして、この点で我等が漢語に負うところは多大であります。

ついには漢語だけで間に合わなくなり、英語をそのまま日本語化し、明治期には、西洋の言葉を「漢字」に翻訳した。とくに、西洋の言葉を翻訳したものは、それぞれの「概念」について、よくわからない("概念"も西洋の言葉かな?)。最近では「責任」がその先端にある。愚生の無学、恥ずかしいかぎりである。

自分のなかに潜む「なにものか」をえぐりだすための問いが、書籍にある。「なにものか」を外在させるために紡ぐのが言葉でないだろうか。その言葉をつかみ取るのが読書だと愚考する。