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生活知と世界知、+αで球体のなかを散歩

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「脳」整理法以下、まったくまとまらないのを承知で、動くがままに盤をたたく。一人称にとどめてながめたとき、「私のいる世界」と「私のいない世界」に"+α"して、円を平方から立方に変換可能なら、その球体のなかを散策してみたい。きっかけは、いま読んでいるコレに記されていたテキストから。

統計的真理を扱う科学的方法論だけでは、取り替えがきかない「この私」という一人称を生きる際の倫理を扱うことはできない。その一方で、生活知を参照する際にも、科学が明らかにしてきた世界知を無視することもできない。 P.40

茂木先生がおっしゃるようにダブル・バインドな状況。 「時間」という概念をまえにしたとき、「世界知」と「生活知」には緊張関係が生じる。この言説の構造を、愚考よろしく置換してトリップした。

右、ほぼ日手帳に図をしたためる。○を書き、真ん中に縦線を引く。左は「私のいる世界」、右は「私のいない世界」。 "いる・いない"よりも"知る・知らない"のほうがフィットか、う〜ん、とりあえず流す。

この○は平方。右側を黒くぬってしまえば、絵柄の座りごこちがワルイ。二項対立みたいだ。

座りごこちのワルイ絵柄をなんとか立方体にできないか。もう一度ほぼ日手帳の図に目を落とした。奥行きを加えたらどうなるか?それで、とりあえず球体にはなる。そこで疑問が浮かんだ。この奥行きはナンダ?+αの存在、いや存在かどうかはわからない。

とはいえ、「私」は「私のいない世界」をどう解釈すればいいのか、という手段を発見できていない。そもそもバカだから気づいてない。「私のいない世界」へ一歩踏み入れてリアルにしてしまうのか、(Google先生に教えてもらい)バーチャルを感じとるのか。さらにもうひとつ。己の愚脳のなかに+αをインプットしておきながら、アウトプットのメソッドは皆目見当つかない。想像力か。にしても、ナニを想像していいのかすらわからない。

球体のなかを散策できれば、どんな「私」がいるのだろう。

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