百聞は一見にしかず、百見は一行にしかず

34才目前にして、「教える・教わる」ってなんだろうなぁってよぎった。「教育」なんて大文字的な制度単語まで触手を伸ばせないけど、なんだろ、「その地域でしか学べないこと」って大切だな。

すでに小中学校の現場では胎動しているだろう。例えば、いま自分が住んでいるすぐそばには、琵琶湖がある。無恥をさらせば、根っからの大阪出身大阪人のわたしは、大阪に住んでいたとき、「琵琶湖って」って対岸の火事みたいだった。

ところが調子のいいはなし、毎日のように眺めると、ふと気になって「琵琶湖にしか」ってフレーズが頭にうかぶ。すると、400万年の年月をかけて、今の三重県伊賀上野盆地から移動してきたことをはじめ、次の学びへの"初手"をさずかる。

「その地域でしか学べないこと」———-最初は自然から出発してもいいだろうし、科学でも、工場でも、商店街でもいい。そこから、「科目」というラベルに帰結していきたい———-けど、それは教育の現場をしらない無責任な愚見。

愚見を承知でしたためる。その地域でしか学べないことへふれるために、外へでる(行動する)。外へでれば、"気づき"がたくさんある(よね)。

なによりも、オトナが考えるのでないかと期待してしまう。「その地域でしか学べないことが何なのか?」万一ないとしたら、「何をすればよいのか?」「それをこどもたちにどうやって教えるのか?」と。虫がよすぎるかなぁ(笑)

「その地域でしか学べないこと」を伝えてもらえるなら、紙媒体やマス的映像がある。けど、今なら通信技術をつかった「編集・無編集のマイメディア」もある。「その地域でしか学べないこと」と「マイメディア」の結びつきが、「教える・教わる」にあたらしい息吹をあたえまいかと妄想する。

マイメディアから百聞したわたしができること、それは一行。一行がもたらしてくれるもの、それは気づき。気づきをささえるもの、それは、わたしにはコトバにできない感性につつまれた礼節。

とりとめもない愚考をめぐらせて34才になる。