ためらいの倫理学

ためらいの倫理学―戦争・性・物語またまた内田樹先生に登壇していただく、関連エントリーは後述。先生が個人名で出版した最初の単著。読了語の感想は一言、愚生の頭がいかにわるいかだけ理解できた。それ以外は、すべて理解できず、なにやら鼻をつまんでカレーライスを食べているようだ。カレーライスがたとえいちご味であっても気づかなかったと確信できる。

アメリカという病、戦後責任、愛国心、有事法制をどう考えるか。性の問題、フェミニズムや「男らしさ」という呪縛をどのように克服するか。激動の時代、私たちは何に賭け金をおくことができるのだろうか—–。ためらい、逡巡するという叡智—–原理主義や二元論と決別する「正しい」日本のおじさんの道を提案する。今最も注目を集める現代思想のセントバーナード犬、内田樹の原点が大幅加筆でついに文庫化。わんわん!『ためらいの倫理学―戦争・性・物語』 解説・高橋源一郎

本書は、

  • 「なぜ私は戦争について語らないか」
  • 「なぜ私は性について語らないか」
  • 「なぜ私は審問の語法で語らないか」
  • 「それではいかに物語るのか-ためらいの倫理学」

の4つのテーマから構成され、テーマに関係する複数の項目が収録されている。前半の戦争論と性は、特に人物にフォーカスされている。(以下敬称略)スーザン・ソンタグ、藤岡信勝、高橋哲哉、カルン・フォン・クラウゼヴィッツ、上野千鶴子などの言説である。それらに先生が批評をくわえていく。最近の先生の著者とは対照的といえるかもしれない(「事象」への批評が散見されるので)。

「なぜ〜語らないか」という問いをたて、「語りはじめる」。自分とは異なる位置(対極も含む)に立っている人たち、往々にして、戦争や性について語っている人たちの言説を援用し、背理法的に問いを証明していく。

以下、レビューにならないが、揚げ足をとらせてもらい愚見をつづける。高橋源一郎氏の解説の"一言"にひっかかった。それは、冒頭の"「正しい」日本のおじさんの道"のなかの「正しい」である。

「正しい」ということ表現自体が二元論にならないだろうか?

もちろん、高橋先生ほどの方だからそんなことは百も承知、意図があって「正しい」と表記したと推し量っている(だからわざわざ「」がついている)。

だったら何が言いたいのかとなると、二元論から脱却するための語彙力である。皮膚感覚だが、二元論から距離を置こうとするとき、愚生は「語彙の貧困」を自覚し途方にくれる。自分の視点を広げようと努力すればするほど、「ことば」がみつからず、表現できないのである。つまり、「考える」こともできていない—–とほほな状態に身をおいている。

たとえば、「バカ」である。先生はこの言葉を使うのに、

自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計算する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。同P.42

「私たち」読者と、これほどの言い回しで「バカ」を共有する。同じく「知性」について以下のように述べている。

私は知性というものを「自分が誤り得ること」(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価ができるかを基準にして、私は人間の知性を判定している。同P.145

偏見をもつに、本書の醍醐味は、「自分とは異なる言説空間に批評を加えるときの言葉」にあり、その言葉の源泉は、「他者の言説空間を構造化すること」ではないだろうか。

この偏見が諒とされたとき、右の自問が放出された。それは、———-対象を考察する起点に"何を"を設定すれば、構造化への扉が開くか?———-ということである。

自問への自答の浮子を沈められそうだ。続きは後日、別のレビューにて。