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バスの次は何なのだろうか?

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kmizusawaの日記さんのエントリー経由で、えこまの部屋さんのエントリーを拝読。お二人が書いた文章をかみしめる。以下、引用の「ウィーク!」について、小骨がのどにつきささったのでとってみる。

今朝、読売TVの「ウィーク!」で司会の男性が「今どき、幼稚園児の送迎を保護者グループの当番制でやっているなんて先進国では考えられないですよ。普通、先進国ならバスの送迎が当たり前ですよ!いったい税金を何に使っているのかっていう話で…」と吠えていた。 引用元: えこまの部屋さん 神照ラス子供タチ

送迎バスの次はなんなのだろう?これがよくわからない。司会者の言葉尻だけをつかまえさえていただくと、「先進国ならバスの送迎があたりまえ」と「安全」が"等価交換"(に近い)であるという印象をいだく。

テンプレートとして以下諒せられたい。愚生は送迎バスを否定したり、わるいと言っているわけでないし、また地域によっては、「通園(学)距離」に必要な手段と承知している。子どもがいない愚生は、親御さんが必死になっている様子を見聞し、想像しているにすぎない。だから、このエントリーも世迷い言でしかない。

それをふまえたうえで、愚生は司会者の言葉にむずがゆくなる。「囲み」のなかに入れて均質化すれば、危険を回避できると大人が考えるから。大阪では子どもたちにICチップをもたせ、自動販売機にアンテナをたて、「通過したこと」を通知するシステムを試験稼働させるという。ICチップと自動販売機の次はなんだろう?無線LANと人工衛星と携帯型マイクロカメラか。遠い彼方へ妄想するならエネミー・オブ・アメリカやマイノリティ・リポートもある。

省みるに、「みんなといっしょ」がこころづよいと肌で感じるのは、「ひとりでいること」のこわさを知っているからでないか。反対もしかり。時には、「みんなといっしょ」が災いをもたらす。"みんな"と"ひとり"の均衡を学び、自分のなかで昇華する。昇華のなかでひらめいた知恵を公共におすそわけする。

(いまとずいぶん状況は違うが)子どもは、寄り道したり知らない道を通って家路に着くなかで、「なんだかこのあたりヘン」とアンテナを立たせたのだと思う。危険を察知する感を肌に吸収せず、はじめから均質化したとしても、「そうかそいうことか」と子どもなりに納得できるのかどうか、それを子どもたちへ問いかけ耳をかたむけたい。

子どものころ、「帰り道、ひとりで池や川に近づくな」と周囲の大人から教わった。池や川が危ないのではなく、「泳げない私」が「ひとり」で向かうことが、「危険」だからである(そう説明してもらった)。転じて泳げるようになると、川はいきなり深くなる、底は渦がまいてまきこまれる、水温が急激にかわる、だから気をつけるようにと説明の内容が変化していった。

これらは古き良き時代を万歳しているのではない。不敬を許していただけるなら、"社会的コスト"からも一考してもらえまいか。危険を回避するために技術の進歩を享受するコストと事前に回避するためのふるまい方をはぐくむコスト—–どちらが費用対効果を体感できるかである。

あらためて司会者の言葉をのみこみ、自問してみたい。「税金」というコストを考えておられるなら、上の費用対効果についてどのように回答されるであろう。

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