詫び入るを置いてきたのだろうか

詫び入るという言葉をあらためて考えさせられる日々が続く。お詫びの仕方、言葉、機、気持ち…..ごくあたりまえのことがいちばん難しいのだろうか、同じ立場にたったとき自分ならどうふるまうのだろうか、こどもたちはどう受けとるだろうか———–と眼前にくりひろげられるふるまいを眺め、五感を総動員させて想像してみる。

無知蒙昧の己であるが、何かの視座にたちたいという欲望のままに。痴態と罵る自分と自らを同工異曲とあざける自分が両立する。他者から学びたい自分があり、ああなりたくないと夢想する高慢な自分もある。

頭を垂れて、言葉を紡いで、素直に「詫び入る」とは、さぞや難しいことなのだろう。責任という高尚な形而上の問題におきかわっていく。愚生は難しいと認めたくない。たとえ、過去や未来を愚直に訴えても、今の姿形を内省しなければ、誰が評価してくれようか。

いい・わるい、正しい誤っているからではなく、「ひとさまに迷惑をかけた」とむかし大人たちに叱ってもらった思い出だけが頭に浮かべば慎めると愚考する。

「大人」というのは、「いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる」もののことではない。「自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する」という「物語」を受け容れるもののことである。言い方を換えれば、「私は***ができる」とかたちで自己限定するのが「子ども」で、「私は***ができない」というかたいで自己限定するものが「大人」なのである。「大人」になるというのは、「私は大人ではない」という事実を直視するところから始まる。自分は外部から到来する知を媒介してしか、自分を位置づけることができないという不能の覚知を持つことから始まる。内田樹 『「おじさん」的思考』 P.224