疲れすぎて眠れぬ夜のために

疲れすぎて眠れぬ夜のために 角川文庫

このブログではおなじみの内田樹先生。本書の内容も、他の著作と似たり寄ったりであるが、その理由も『「おじさん」的思考』(間違っていたらごめんなさい)かに書かれているので納得。本書をつうじて先生が言いたかったのは、「無理はしてはいけないよ」ということ。そして、まずは静かに「聴く」をやってみようと。何を聴くのか?それは、外部(己の身体はある種の外部です)から到来する「声」であり、それに耳を傾けていると、人はリラックスできると武道家でもある先生が説く。

新しい生き方の師範、『「おじさん」的思考』の著者が贈る最高の叡智。現代思想の最先端をゆく幸福論。サクセスモデルの幻想を捨て去り、真の利己主義を目指し、身体感覚を蘇らせ、礼儀作法と型で身を守り、家族の愛情至上主義はもうやめる—もっとも現実的な生き方の知恵。『疲れすぎて眠れぬ夜のために』

レビューを書くにあたって付箋をはっている箇所を中心にもう一度ざっと読み返す。すると、引用箇所の「真の利己主義」がとても気になった。「最近の人は利己的だ」という批判について、先生はそう思わないと論破する。単に「己が狭隘している」だけだと。たとえば、「むかついて人を殺す」というフレーズをとりあげる。

一瞬の「むかつき」を解消するという「快適さ」を選んで、その結果、数十年(場合によっては死ぬまでの全期間)にわたる「不快」をその代償として引き受ける、というのはどう考えても間尺に合わない取り引きでしょう。 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 P.19

ここの「人を殺す」を「酒を飲む」に置換してハッとした。

こどもの軽挙妄動の後始末をすべく大人が対応すると、その対応について大人が批評する。同情という免罪符を手に、役人や学校を批評する。しかし、活字に目をとおしてみても、免罪符の枠組みから脱して、先生のようなロジックで説諭している人はおおよそ少ないように思う。とぱっちりをうけた方をフォーカスするが、とぱっちりを与えた方に物言わない。

本書で援用されているホッブスやロックが書いた近代市民社会論によると、人はほんとうに利己的にふるまうとするなら(己の幸福を利己的に追求すればするほど)、結果的に己を含む共同体全体の福利を配慮しなければならなくなるわけである。

このほかにも「コミュニケーションは贈与である」という言葉が印象にのこった。他人に対して優しく接する方法のなかで、一番難しいのは「ほっといてあげる」ことだという。

誤解しないでほしいですけれども、単に「ほうっておく」とは違うんですよ。「ほっといて『あげる』」「ほっといて『もらう』」ということばづかいから分かるように、それが敬意の応酬であることが双方にちゃんと意識されているんですから。 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 P.241

ときには「何もしない」ことが貴重な贈り物になる—–ただし、それも「コミュニケーションが贈与である」というものごとの基本がわかっていないと、成立しない。

どちらか一方がわかっていないと、「ないものねだり」が口からついでてしまう。

愚考すると、「真の利己主義」も「コミュニケーションは贈与である」も共通しているのは、ディセンシー(=礼儀正しさ)」である。内田樹先生のキーワードといえるのではないだろうか。他の著作(=ブログ)にも頻出する重要単語である。

このディセンシーが内包する意味は深遠だと思う。字面の「礼儀正しい」ふるまいではない。何かしらの戦略がある。少し恣意的な編集をさせてもらうと、

礼儀作法の目的は何よりもまず「仮面をかぶることによって自分の利益を最大化すること」なんですから。同P.197

とドキっとするようなコンテキストに遭遇する。楽天のM氏とライブドアのH氏を対比すると意味深長な微笑を浮かべてしまう。

なにより相手を慮る所作は必要である。と同時に自己の利益を最大化させる動機もそなえたとき、相手にわざとらしさを感じさせず、嫌みにとられず、心地よい関係を維持するのに、自分はどのような規矩を備えればよいのだろう。

あらためて「他者」を突きつけられた気分。

追伸

P.117-124の「明石の事件について思うこと」に刺激をうけた。ここに述べられている知見は、愚生の思考の”テンプレート”として保存された。

現代人は「群と行動をともにする」ことの生存戦略上の有利さと安全性を過大評価する傾向にある[…..]マジョリティとともにあることは決して安全を意味しないということ 同P.124