時間軸+空間軸+自己軸=構造化への扉

2PandDouble: ためらいの倫理学

対象を考察する起点に”何を”を設定すれば、構造化への扉が開くか?

「自問への自答の浮子を沈められそうだ。続きは後日、別のレビューにて」といいながら随分たった。まだふんぎりはついてないが、備忘として録。

"何を"設定すれば、内田樹先生のように対象を構造的に考察できるのだろうか?という疑問がずっと頭から離れない。その答えが、タイトルであり、以下3つ。

  1. 時間軸
  2. 空間軸
  3. 自己軸

といっても、以下は愚生がいままでに出会った「知」を無断かつ無意識的に編集したものであるから、オリジナルなんて代物でもない。くしくも内田樹先生の昨日のエントリーのタイトルに我が目を疑う。シンクロニティか(笑)

1.時間軸

過去・現在・未来をさす。対象を考察するとき、アウトプットの品質は、この3つの時間軸がどれだけ長いかに依拠されまいか。"過去"を考える。厚顔無恥をさらせば愚生の場合、せいぜい自分が生きている"年号"程度である。それも己が獲得してきた卑小な知識に担保されているにすぎない。古典を読むとき、現在から過去を眺めるのではなく、過去の湯船につかって想像できるかと問われれば、耳が痛い。

対照をなすブロゴスフィアの識者は、尤なるテキストをアップする。いずれも考察する時間軸がとても長い。過去なら有史(時には有史以前も)からであり、現代へつなぎ、未来を想定する。時間軸を長くしたければ、それ相応の「知性」が必要となる。

2.空間軸

うまく表現できないが、他者を包括した自分との距離といえる。これも1.同様、身の回りといえば、己が生息している地域程度であり、せいぜい広げても近畿一円ぐらい(苦笑)

識者はどうか?いわずもがな広い。日本から世界へと視座を据える。もちろん単にひろげるだけでなく、身近な他者から見知らぬ他者まで、その空間は伸縮する。自己に関与する要素で構成される空間が広大である。

3.自己軸

衒いなくいうと、「自分とは何か」の深度だ。学問なら哲学か。とにかく愚生の深度はまだまだ浅い。「問い」が少ない。つきつめれば、少ないというよりも「問い」そのものを知らない。「自分をわかった」というふるまいが、「自分を誤解している」のではないかという疑念を上回っているからだ。不安より安定を求めているので、「自分とは何か」の道筋にバカの壁が立ちはだかっている。

この1.2.3からなる立方体の容積が大きくなればなるほど、対象を考察するときの構造化がするどくなると推察する。時間軸を長くし、空間軸を広げ、自己軸を深めるための修養をつむ。そうすれば、この立方体の中心点が創出されるのではいか。その中心が自分の「規矩」である。

この立方体を頭にイメージしたとき、次の問がうかんだ。この立方体を支える土台は何なのか?

それが、「無知の知」と「想像力」でないだろうか。

愚生が何を知らないかを知ることを渇望し、それを知っている他者を欲望する。「欲望の欲望」に羨望するのではなく先人や賢者の驥尾に付す。さらに、三つの軸のなかで繰り広げられてる事象を想像する。過去・現在・未来を想像し、他者を想像し、自己を想像する。五感を駆使し、第六感を研鑽して。

愚考に愚考を重ねて、了する。「無知の知」と「想像力」を強靱してくれるものが「慎み」であるとうなづきたい。