態度が悪くてすみません-内なる「他者」との出会い

態度が悪くてすみません - 内なる「他者」との出会い肉薄してくる。「だからどうした?」と問いかけて、「それぐらい自分で考えて身体を動かせよ」と迫ってくる。先生は、知りたいことは、「私がまだ知らない私」と言う。ところが、「知る」の原義が愚生の中で確立していない。改札口の前で立っているような気分だ。改札を通過するパスは持っている。しかし、そのパスには何も印字されていない。改札をぬけたらプラットホームが待ちかまえている。どの列車に乗るのかわからない。だからといって改札を通りたくないわけではない。行き先案内と運賃表などない。自分が描かなければならない。改札口の前に立ちすくみ、前へ進もうとする自分がいる。

「ウチダくん、それは違うよ」と言われたとき、私はつねに「すみません」と言うわけではありません。「え、どこが間違ってた?」と問い返すことだってあるんです。私が「どこが?」と問い返すのは、その人の指摘によって私の中に知的な興奮が起動したことを意味しています。[…..]逆から言えば、私が「すみません」と言うのは、「この話はやめましょう」というクールなサインです。それは、その指摘の中に「私についての情報」をふやす手がかりがないという私の判断を意味しています。『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』P.7

私たちが自分について知りたいと思うことは他者からを経由してしか入手されない、と先生は断ずる。相手が発信する情報が「私についての正しい情報」だとしても既知の情報なら「すみません」の一言。「私についての新しい情報」を獲得できるときだけ”すみません”以外のことばが返ってくる。

「あなたが何を言いたいか、何を考えいてるか、私にはもうわかっている」というシグナルを、相手が送信しないように対話をする。これはとても重要な仕事であり、たいへん気疲れがする共同作業である。

真に批評的な言葉は対話的なものです。そこには「これから何を言おうとしているのかまだ知らないで話し始める」人と、「これから何を聴き取ることになるのかまだわからないけれど、それが『私がまだ知らない私についての知』であることを直感している」人の二人が立ち会うことが必要です。その条件が満たされたときにのみ、批評は生成的なものになる。私はそう考えています。同P.10

対話の深奥を描き利己的なビヘイビアを示す”まえがき”。これをビジネスの会話に置換したとしたらどうだろう。『私がまだ知らない私についての知』を、「(相手を知るための)私がまだ知らない(相手を知ろうとする)私についての知」と考えたい。さすれば、テクニカルな聴き取り方から一線を画すると思う。

「知識がある」ことは「よいこと」だと言いますけれど、それは「知識がない」人よりも「知識がある」人の方が「知識がふえる」運動が多様かつ高速で展開するからです。「知識がある」こと自体には何の意味もありません。同P.8

「私はXHTML+CSSの知識を持っている」は何の意味もなさないと理解している。「知識がある」ではなく何のためにあるのか。「私の知識を顧客が私からうまく引き出すためにはどうすればよいのか」を考想するために有効な「知識」をふやす———-このことが肝要なのだと思う。そして成果を出すために実践する。だから私のレーゾンデートルを顧客から評価される。なぜなら、顧客が、「自分は何を考えているのか」の探求を始めるきっかけをつくったのは私自身だから。

それは単なる「感情移入」というのとは違う(「感情移入」というのは、「他人」を「私の同類」とみなして、自分の感情や思考を他人の上に「拡大適用」することである)。ほんらいの「コンタクト」というのは、むしろ今の私の知性や感受性をいったん「かっこに入れる」ことを要求する。私にとっての「常識」の活動をとりあえず一時的に停止することを要求する。構造主義というのは、この「私をかっこに入れる方法」だと私は思っている。同P.197

「私をかっこに入れる方法」を「音楽」に例えて説明している。

例えば、「1956年におけるエルヴィス・プレスリー登場のリアルタイムでの衝撃」を知りたいとあなたが思ったとする。その場合には、エルヴィス登場から現在までの音楽史的「常識」を全部「抜く」必要がある。エルヴィス以後のロックのビッグビジネス化、ビートルズ登場、ウッドストック、パンク、ラップ…..そういったすべての「エルヴィス以後の出来事」をいったんかっこに入れて、「そんなことはまだ起きていない時点」でのリスナーが1956年時点でどんな音楽的環境にいて、ロックの「未来」についてどんなことを予想していたのか(それはほぼ100%はずれた)をあなたは創造的に追体験しなければならない。

わからない。残酷なことを要求しているとだけ感じる。愚生は実弟から影響を受けて1956年の音楽を片っ端から聴いた。しかし、1956年時点への創造的追体験はムズカシイ。単純に「苦痛」だから。というのも、そこには「好悪」や「正誤」といった感情の判定がどうしてもつきまとう。

音楽で例示されたので、音楽で刀を返してみた。これまで同様、ビジネスに置換すれば「かっこに入れる」ことは、今まで自分が培ってきた「知識」を捨象するように求められる。その恐怖に立ち向かえるだろうか。

もちろんアカデミックなアプローチとビジネスのアプローチは近似値であるとは思わない。しかし相互補完できるのだと仮説をたてて読むと内田樹先生の言説は思想書でも哲学書でもなくなってくる。

「自分が知らない叡智」を蔵している本書を批評的に読もうと試みたとき、他者からを経由してしか入手されない自分に出会える。

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