名刺交換しないんだ

ある会社でのできごと。今年その会社に入社した新人の方2名をご紹介いただく。

  • A:「○○」と申します。
  • B:「××」と申します。

残念ながら○○氏と××氏のお二人とも名前を忘れた。一部が聞き取れなかった。私から名刺を差し出そうかと一瞬よぎったが、意図あって手を止める。

この風景、どう映るのだろう?

浅学寡聞にて申し訳ないが、日本の商慣行もグローバル化してきたのだろうか。私が承知している範囲は、「いまだ日本は名刺交換によって名前を覚えてもらう」であり、恥ずかしながらその範囲内に生息している。だから少なからず衝撃を覚えてしまった。

誤解のないように申し上げると、このお二人を責めているのではない。というのも、「どういう時に名刺交換をするのか」ということを教わっていないわけだし、また自ら経験する場数も少ないから(と推測したから)だ。学生から社会人になったとき、今までの「当たり前」が常識でなくなる。

両名ではない、むしろ会社に私は戦慄した。とにかく名刺交換して名前を覚えてもらいなさいという教育を施していない会社にである。名刺交換は何のためにするのだろうか。数ある理由のなかのひとつとして、「ネットワークを形成する」という愚見をあげたい。他者が築いているネットワークに自分という端末を繋いでもらう。だから、昔は名刺交換し、少しでも会話ができたなら、「礼状」を書いた。ネットワークを強固にするために。今でも「手書き」で送っている人もいるし、代替として「メール」もある。

昨年、私の父親ぐらいの年齢の社長から、ECサイト構築について話を伺いたいとご連絡いただいた。舞鶴から大津へお越しいただき、名刺交換したあと、3時間ほどお話させていただいた。「話」だけなのに、3時間分の請求をしてくれと依頼されたときは、「これか」と、京都のM先生が日頃おっしゃっている話を氷解できた。

とどまらない。後日、封筒が届いた。宛名を一瞥しただけで、達筆をふるっているのがわかる。もちろん墨。開封して驚愕した。先の社長だ。2枚にわたり、3時間も話していただいた感謝の気持ちと、今後の事業への情熱、その情熱に火を入れてくれた時間であったとしたためられていた。身体が震えた。万一これがパフォーマンスであっても、そんなことはどうでもいい。とにかくうれしかった。

話がかなり逸脱してしまったが、何が言いたいのかというと、その会社は、「ネットワークを閉じること」を自ら"選択"しているのである。言い過ぎかもしれない。しかし、右も左もわからぬ新人に「なぜ名刺交換が必要か」ということを説明できていれば、たとえ立ち居振る舞いがぎこちなくても、「ああそのように教育されているのだなぁ」と微笑する。

ゴーイング・コンサーンに必要なのは顧客である。顧客は外部だけでなく内部にも存在する。その顧客を創出するのもまた顧客だ。誰かが誰かをつれてくる。いつしかそれがネットワークになり、自律的にネットワークが形成されていく。スタンドアローンからLANへ、社内LANに発展し、イントラネットへと進化する。そしてインターネットへ。

「名刺交換を教えていない」から「ネットワークを閉じている」と導き出すロジックに無理があるのは理解している。それでもネットワークの肝を教えていない、ましてや、「教えていないこと」が外部には奇異に映っていることを「自覚」していない、それが私をおののかせた理由である。

無関心という引き金は、一体何を引くのか?—–あらためて自問し、解なき解に手をのばしたい。幻滅してしまうほど貧困なる己の想像力を駆使して。