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ついでだから作文技術の雑感

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日本語の作文技術で述べたように、文章を書くときずっと悩んでいることがある。

  1. 「が」と「は」の使い分け
  2. 「を」と「に」の使い方
  3. 句読点の打ち方
  4. 主語と主格の扱い
  5. 論理的な接続詞の使い方

方々の書籍に手をのばした結果、まず自分の文章をじっくり読み直し腑分けした。そして、悩みを解消するために問題点を次の3つに分類するのが得策ではないかと仮説をたてた。

  • a. 文法上解釈の選択
  • b. プロットの練り方
  • c. 表現の仕方

a. 文法上解釈の選択

日本語の文法について、アカデミックは他の学問と同じように甲論乙駁らしい。愚生は文法なんて皆目わからないので深入りしない(いや、できない)。とはいえ、自分がなじめるルールを考えている。例えば、「主語はいる/いらない」ならどちらを選択するか。もちろん、臨機応変に使い分けられればそれにこしたことはない。あいにくそんな器用でない。だから書くときの判断軸として、何を「基本」とするかまず求めたい。そういった事情からルールを考えている。

「が」と「は」の使い分け、「を」と「に」の使い方は、おそらく文法にまで足をつっこむと自家中毒をおこすだろう。拘泥したくない。ただ、今まで読んだ本のなかで、自分が読みやすいと感じたものは、これらの使い分け・使い方が上手なのではないかと推察している。あくまで身体が反応している程度の体験から述べているだけで根拠はない。

感覚でさばくのではなく、

文法の解釈→諸説の調査→自分に合致した解釈を選択

というプロセスをたどりたい。ただし、諸説の調査といっても学術ではないから、自己満足的にさらっとスキャンするだけでいい。文法解釈の選択を、c.と混合すると、ややこしくなるのではないだろうか。つまり、「が」「は」「を」「に」などを表現の仕方のひとつしてとらえ、アーティスティックなハンドリングをめざすしてしまうという寸法だ。どうやら、今までの自分はa.とc.をごっちゃにしていた。

b. プロットの練り方

まったく論理的でない愚生が論理的に文章を書こうと心がける自体、チャンチャラおかしいけれども、やっぱり焦がれる。a.と同じく、c.から切り離して「技巧」からアプローチしてみたい。blogsphereで遭遇する言説は、テキスト自身がクリアカットであり、テキスト同士の接続がロジカルだ。でもチョット待って。テキストの前に「プロットが論理的」だと思う。なぜそう思ったのか?それは、「書き言葉」と「考え言葉」は違うと体感したからだ。思考の筋道が通っていないのに、書き言葉がスッキリすることはあるのだろうか。

ただし、思考のとっかかりはぐちゃぐちゃでも許容できると思う。「無知の知」を認識する前から筋道が通っているとは想像しにくい。例えばライブドアの一件を考える。「ライブドア事件」と考想しても、何から手をつければよいか愚生にはわからない。迷路の入口に立って呆然としている。「論点」という出口を探るために俯瞰できる視座はないかとまごつく。それが、「無知の知」を認識するまでの行程。そうした紆余曲折を経て迷路を脱出する。論点が定まる。論点が定まれば、「手続き」にしたがってプロットを練っていく。手続きは、演繹・帰納をはじめとしたメソッドをさす。

事象→ぐちゃぐちゃ→論点→仕方→論攷→(結論)

本心をいえば、ロジカルな言説を書く人から、「ぐちゃぐちゃ」を教わりたいのだけど、それは「どうすればよいのですか?」に等しい。愚問だ。それを除外すれば、「論点から仕方」の部分であるプロットを練っているあたりに関心が移る。もちろん、プロットの練り方を支える土台にも興味がある。

想像するに、「プロットの練り方」が秀逸なのだろう。「考え言葉」が豊富なのか、仕方に長けているのか。わからない。身も蓋もないけど、俗な言い方をすれば、頭が良いのか。このあたり妄想していけば、生まれたときに頭が良いのかどうか決まっているのかなんてところまで飛んでいってしまう。コンプレックスとは怖いなぁって痛感する。

c. 表現の仕方

b.で「考え言葉」と「書き言葉」は違うと書いた。放言すれば、その「書き言葉」が表現力。テクニカルな要素も含んでいるし、語彙力にも左右される。内田樹先生は学生の頃からしたためてきたノートがあると著作で述べていた。ご自身が名文だと思った文章を手写していたらしい。夏目漱石、他にもたくさん。そしてそのノートをつらつらと眺めて表現力を養った。三島由紀夫は小学生の頃から国語辞典を「読書」していて、その読書が後の豊富な語彙につながったと言われる。

名文≠論理的は承知している。また、名文≠わかりやすいも納得できる。そもそも、「名文」は書物の分野によって変わると思っている。小説と論文の「名文」は比較できない。だから書き手になった途端、路頭に迷う。否。(書く前に)読み手が名文だと気づかなければ、表現力を会得できないのではないだろうか。気づくには、名文とは何かを察知する規矩が求められる。そんなことを考えていると、何やら蛇が己の尾の先を求めてクルクル回っているような気分に陥る。結局「答え」はないから、失敗を重ねると見えてくるだろうとしょんぼりしながら期待する。

で、ここまでグダグダ書いてきたこのテキストを、上の3つの視点から眺めたとき、「なんだかなぁ」と奇声を発し、べそをかきたくなった。おしまい…..orz

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