社会調査のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ「社会調査」の大半を"ゴミ"と豪語している痛快さに一目惚れして購入。読了後、まさしく「ゴミ」であると納得。ただし、わかったつもりになるのは早計だ。本書の助けを借りずに自力で「ゴミ」と見分ける能力を身につけなければ、まことに「わかった」ことにはならないだろう。なるほど読了した今、社会調査の眺め方が変わった。ただし鵜呑みしない程度の疑いを向けられるようになっただけで、教授のようなクリアカットなツッコミにはほど遠い。世の中にはうっかりすると翻弄されてしまう社会調査が瀰漫していると気づきを与えてくれた一冊だ。

世の中に蔓延している「社会調査」の過半数はゴミである。始末の悪いことに、このゴミは参考にされたり引用されることで、新たなゴミを生み出している。では、なぜこのようなゴミが作られるのか。それは、この国では社会調査についてのきちんとした方法論が認識されていないからだ。いい加減なデータが大手を振ってまかり通る日本—–デタラメ社会を脱却するために、我々は今こそゴミを見分ける目を養い、ゴミを作らないための方法論を学ぶ必要がある。 『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』

本書の論点は5つ。

  1. 世の中のいわゆる「社会調査」は過半数がゴミである。
  2. 始末が悪いことに、ゴミは(引用されたり参考されたりして)新たなゴミを生み出し、さらに増殖を続ける。
  3. ゴミが作られる理由はいろいろあり、調査のすべてのプロセスにわたる。
  4. ゴミを作らないための正しい方法論を学ぶ。
  5. ゴミを見分ける方法(リサーチ・リテラシー)を学ぶ。

ゴミをまき散らしているのは誰か?それは4つのグループに分けられる。「学者(および学者予備軍)」「政府・官公庁」「社会運動グループ」「マスコミ」である。なぜゴミがまき散らしてしまうのか?それにはいくつもの要因が複雑に絡み合ってくる。例えば学者なら方法論と権威闘争という要因がある。

アンケートなどの社会調査は、世の中の実態や人々の意見を把握することを目的とする。しかし、これら社会調査の結果には、不可避的に現実の社会からの「ズレ」が存在する。この「ズレ」のことを専門用語で「バイアス(bias=偏向)」と呼んでいるが、社会調査論や科学方法論とは、このバイアスを可能な限り縮小し、「事実」とは何かを客観的に認識していく、研究者間で正しいとされる確立されたプロセスのことにほかならない。同P.10

浅学菲才を承知で意訳すると、ありていに言えば日本の学者がおこなう社会調査の場合、上記引用部分の「確立されたプロセス」が限りなく"ない"からゴミが生み出されてしまう。さらに社会調査データを「公開」しないという日本の大学事情が拍車をかける。データが公開され誰でもアクセスできる「ルール」が整備されていないから、調査方法を検証したり、調査結果に反証したりできない。

一例をあげると「後づけ論理」と呼ばれる論理構成がある。A教授が自分の仮説(仮説に至るプロセスの検証はここでは割愛)を実証したいとする。そこで調査を行った結果、統計的に有意なデータが集計されなかったしよう。この場合、A教授は「データ項目が多すぎるからだ」と考え、統計学的偶然の範囲を超えない程度に調査項目を減らした(または項目をくっつけた)。その結果、有意な集計結果が得られたのでその社会調査を論文に使用するという寸法である。

これは明らかにおかしい。はじめに設定した仮説どおりになるように恣意的に項目を調整しているからで、本来であれば、仮説と異なる調査結果がアウトプットされた時点で仮説構築のプロセスを検証するところまでもどらなければいけない。

自然科学の理論・検証プロセスを考えてもらうとわかりやすいが、例えば水を電気分解すると水素と酸素とが二対一の割合で発生するはずだと考えて実験をし、その通りになればよしとする考えである。もしそこに窒素が混じっていれば、実験プロセスで何かミスを犯したか、もしくは理論が間違っていたことになる。同P.108

自然科学の「理論」という"仮説"が強固の耐性を誇示しているのはまさにこの考えによるものだ。「反証」を与え、様々な反証にも揺らがなくなったとき、水の電気分解の「理論」が構築される。誰が実験しても水素と酸素とが二対一の割合で発生するのである。

社会科学でも同じであって、事前にきちんとした理論と仮説とその検証プロセスがあって、そのとおりのプロセスで検証された結果を見なければならない。ところが現実のアカデミックな世界は、本書によるとそうではない。反証可能性を持たない論文が登場してしまう素地があり、権威が跋扈している。

学会の他にも「社会運動グループ」「マスコミ」の社会調査の問題点も舌鋒するどく指摘している。特に、気をつけなければいけないと思ったのは、「恣意的な社会調査」。「○○という事情を訴えたいから××のデータが抽出されるようなアンケート」や「誘導尋問がちりばめられた質問用紙」などである。憲法や政治に関連したテーマに散見される。社会調査ではないが、最近では新聞特殊指定問題のときの報道がこれにあてはまる。新聞特殊指定の「賛成一色」であり、異様な雰囲気を醸し出していた。新聞がみずから「反対」を唱えた報道を私は寡聞にて知らない。

本書には多数の事例を引用しているので、その一つ一つについて自分なりにおかしいと思った点を列挙し、その後で教授の指摘した問題点と比較してみるとおもしろい。それだけでも効果抜群だと思う。

特に社会調査の方法論は新書に収まる限り問題点が指摘されている。ゆえに思う。「教授の指摘する問題点をクリアして調査するのは相当困難だろうな(というか不可能に近い)」と。私は社会調査を行う側ではないのでその視点では読んでいないが、行う側の人にとっても参考になると思う。あくまでリサーチ・リテラシーの養成という視点で読み続けたので、その恩恵を十分に受けられた。

最後に問題。次の新聞記事を読んで、明らかにヘンな点、文章からは判断できないおかしそうな点、文章からは知りえないがもっと知りたい情報、記事の背後にある事情(類推)などについて考えてみてください。

「御堂筋駐車違反6割減/『車輪止め』にまいった」
大阪府警は二十三日、改正道交法の施行で十日から使用を始めた車輪止め装置「クランプ」による駐車違反取り締まり結果をまとめた。指定路線の御堂筋(四・一キロ)で、十日間に車輪止めを取り付けたのは約二百台。その効果で駐車違反は六割以上減少したという。/府警は施行以来、連日、五十人を出して取り締まりを実施。十九日までに反則切符をきった四百三十六台のうち二百六台に車輪止めを装着、悪質な百十四台はレッカー移動した。/府警は施行前の九日と十九日の午後三-四時に同路線での駐車違反台数を調べた結果、九日の四百七十五台が十九日には百六十三台になり、六十五.六パーセントも減少していた。取り締まりにあった市民は「これを取り付けられるととても恥ずかしい」「ここまでされたら逃げられへん」などと話していたという。/今年一月から四月までの大阪の駐車違反取り締まり件数は約十四万四千件で、昨年同期と比べ三万件近く増加しており、府警では「御堂筋だけではなく、徹底した取り締まりを展開したい」としている。(「読売新聞」一九九四年五月二四日)

おりしも12年後の今日この頃、同じようなレトリックの報道を目にするのは気のせいだろうか?