[Review]: 「甘え」の構造 [新装版]

「甘え」の構造 [新装版]

「うわ、今さら」と言われそうだが今年にはいって購入、読了。戦後に刊行された日本人(社会)論のなかでは(名著中の)名著。『菊と刀―日本文化の型』と双璧か。ちなみに『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』と合わせ技一本がおすすめらしい。昭和46年初版、30年以上たった現在の日本を「かっこ」に括って当時を想像しつつ読みすすめ、他方、現在の日本にも当てはまるかどうかを思案してみた。結果どうであったか。感想は一言よくわからない。私の読解力・理解力・知識力・想像力・考想力の五重奏は「不足」という和音と共鳴し「わからない」を作曲した。

「甘え」は日本人の日常生活にしばしば見られる感情だが、著者は外国にはそれに対応する適切な語彙がないことに気づいた。そんな自身のカルチャーショックから洞察を重ね、フロイトの精神分析、ベネディクトの『菊と刀』、サピア・ウォーフの文化言語論などを比較検討し、「甘え」理論を構築、人間心理の本質を丹念に追究した。 「甘え」は「つきはなされてしまうことを否定し、接近欲求を含み、分離する感情を別のよりよい方法で解決しようとすること」と定義される。

『「甘え」の構造 [新装版]』 土居 健郎

精神医学の博士である著者がかくも明晰な理説を上梓できたのか。それは著者の「現場」から獲得した知見にもとづいている。1952年に著者がアメリカから帰国した当時、精神医学の現場では日本語で診断するという視点がなかった。患者が語る内容を記載するとき、彼らはドイツ語で記載していた。反対にアメリカはすでに自国の言葉で患者の病理を記載し考察をすすめていた。だからアメリカから帰国した著者には「自国の言葉で診断できない」日本の現場が奇異に映ったのである。ほかにも当時の心理テストへも疑問の目を向けた。欧米の言語思考から作成された心理テストが果たして日本人の深層心理に適用できるかどうかという懐疑だ。

そこから筆者の仮説構築がはじまり、日本語の特異性が日本人の特異的心理構造と密接に関係しているのではないかという『「甘え」の構造』の着想を得る。なかでも「甘える」という言葉には日本語独特の意味が内包されているのではないかという出発点にたつ。実際次のようなエピソードがある。恐怖症に悩むある混血の女性患者の治療の話だ。

この母親は日本生まれの日本語の達者なイギリス婦人であったが、たまたま話が患者の幼年時代のことに及んだ時、それまで彼女は英語で話していたのに急にはっきりとした日本語で、「この子はあまり甘えませんでした」とのべ、すぐにまた英語に切りかえて話を続けた。このことはあまりに見事に甘えの語の特異性と、同時にその語が表現する現象の普遍的意味をあらわしていると思われたので、私は話が一段落した時彼女に、さっきなぜ「この子はあまり甘えませんでした」ということだけ日本語でいったのか、ときいてみた。すると彼女はしばし考えてから、これは英語ではいえません、と答えのである。同P.15

冒頭に登場するこのエピソードを読み「ああ、これはわからなくなるな」と予感した。そして、以下「甘えの世界」「甘えの論理」「甘えの病理」「甘えと現代社会」と読みすすめていき的中した。わからなかった。なぜか?

原因ははっきりしている。私の思考が筆者の足下どころか影すら見えるところにあらず、本書と対話するだけの知性を持ち合わせていないからだ。それを承知であえて感想程度の印象をのべると、日本語と英語のみの比較から帰納した考察のためわからなかったと着地した。誤解のないように申し上げると、理路整然としている全体のなかでも欧米との比較を捨象した考察は、「それが言いたかったんだよ」と思わず膝を打ってしまうほど腑に落ちた。

ところが、欧米との比較を前提とした言語(ときに日本語も含む)と心理との関係を解明しようとするとわからなくなる。はしがきでこう断られている。—–私は本書で、自分は国語学者でも社会学者でも文明史家でも哲学者でもないのに、本来これら専門家が扱って然るべき事柄まで言及した。—–私はこの英断を多とする。と同時に扱うべき範疇が広がるにつれある一点の論点を定点観測しながら推論していく困難さを皮膚感覚で味わった。

たとえば冒頭のエピソードである。「日本語」の達者な「英語」を話す女性が「英語」から「日本語」へ自己変換できた結果でなかろうか。仮に「英語」しか話せず、「甘え」を”depend”や”fawn”と表現したらどうだろう。そう表現しても女性が説明したい所作は日本語の「甘え」なのかもしれない。ということは、「英語」から「日本語」に変換するプロセスを「特異的」だと定義づけてしまっていないかと思うわけである。さらに愚考を重ねると英語以外の言語でも「甘え」に相当する原理的意味を含む単語があるのかもしれない。

うまく説明できなくて恥ずかしい。日本語に「甘え」がある限り、それに対応した意味はある。言葉は対応する対象なくして存在しないと考えることができる。しかし、私が「甘え」という言葉を「円周率が甘い」と使ったとしたらどうか。もちろんアホかと言われる。それは、日本語を話す相手が「甘い」という意味をアポステリオリに理解しているからだ。過去の行動から眼前の事象を「ああそれは「甘え」だな」と推察できる。つまり、行動ののちに言葉を照合する。今から「怒りますよ」と言ってから「怒る」人は少ない(と思う)。あとでふり返って「怒ってたな」ではなかろうか。身体から発する「怒り」の信号を察知できれば、怒っている人に向かって「あなたは怒って嬉しいですね」などど発話する人はいないと思う(こういった発話によって発生する”ズレ”が「コミュニケーション不足」というタームに置換されているのかも、よくわからないけど)。

だからこそ、何がだからこそかというと、日本人同士に限定しておきる事象を「甘え」の構造だとする言説に、日本語をそこそこ理解している私は腑に落ちるのである。かといってこの日本人同士に限定された事象を「特異的」だという言説に「わかった」とうなづきたくない。だからわからないになる。「特異的」に賭け金を置くほど日本(人)以外の心理・言語・思想・文化・慣行を私は寡聞にて知らない。

わからないとはいえ、日本人同士に限定した「甘え」の構造には言葉にできなかった「公式」を教わった。特に本書の第二・三章は企業経営における人材育成には欠かせない要素を含んでいると思う。今後教わった「公式」をそれらに活用できるかどうかが私に問われている。