特捜検察の闇

特捜検察の闇 (文春文庫)

前書「特捜検察」が東京地検特捜部を上げているなら本書は下げているかな。けれど無秩序な検察批判じゃない。もう一度日本最強の捜査機関の名を冠して欲しいという願い、それが込められているのかも。いまの法曹界は検察・弁護士・裁判官の三位一体が翼賛体制へ傾きはじめていると警鐘。「変容する司法」のとおり法曹界が動いているのであれば、少し「ちょっと待った」と投げかけてみては。検察幹部を激怒させた一冊。

現在の刑事司法が抱える最大の問題点は、憲法がうたいあげた人権擁護の理念が空洞化していることだ。必要なのは経済界にとって「使いがってのいい司法」ではない。そして自民党や法務省が目指すような治安維持を優先させた司法でもない。必要なのは憲法が「侵すことのできない永久の権利」とうたいあげた基本的人権と自由を徹底的に擁護する司法である。司法の世界の変質がこのまま進めば、新たな世界には、カネも力もない庶民の権利を守るため人生を捧げる弁護士はいなくなる。命がけで巨悪に立ち向かう特捜検事も同じ運命をたどるだろう。私たちが心のどこかで信じていた法の正義は遠い夢物語になってしまうかもしれない。

『特捜検察の闇 (文春文庫)』 魚住 昭 P.264

二人の弁護士。一人はヤメ検と言われる田中森一弁護士、もう一人は安田好弘弁護士である。後者の名前をご存じの方は多い。かつてオウム真理教元代表麻原彰晃被告の主任弁護人を務めた。最近では山口県母子殺害事件の上告審で弁護人を務めている。両先生とも強烈な個性の持ち主。もっぱら安田弁護士について興味深い。マスコミが報道している死刑廃止運動のリーダー的イメージからほど遠い。一弁護士としての思想が冷静に記述されている。

二人の弁護士をとりあげたのには理由。それは二人とも逮捕されているという事実。物語は二人の逮捕を通じてその背景にある虚像と実像を描き、地に墜ちた検察の闇を逆説的に前景化させた。

「つまりヤメ検の世界は、頂上に黒幕的な大物が何人かいて、その下に格下のヤメ検たちがそれぞれ系列化されている。開業したばかりで、実績も人脈もない若いヤメ検は、元の上司に仕事を回してもらわないとやっていけないからね。大物OBは事件を紹介するだけで、客からもらう弁護料の何割かを懐に入れる。中には何も仕事をしてないのに弁護料四千万のうち二千万円も抜いてしまった大物がいて、問題化しかけたこともあるらしいよ」同P.13

特捜出身の検事が相次いで辞めて弁護士へ転向する1987年前後、大物OBを介さずに仕事を受けるヤメ検が現れた。その代表格が田中森一弁護士。彼の名前は闇世界に膾炙していく。かつて大阪特捜に田中森一ありと言われた検事がなぜヤメ検になって闇世界を弁護するようになったのか?

背景には検察上層部に圧力があった。85年の秋、大阪府庁の汚職を内偵していたところ、「たかが五千万円で、お前、大阪を共産党の天下に戻すんかァー!」と検事正から怒鳴られ強制調査の着手を許されなかった。これ以前にも他の案件を最高検によって封殺されていた。

要約すると圧力による恨みから辞職したようであるけれどそうでもない。それらがきっかけになったにせよ辞職の十分条件にあらず。田中森一弁護士を直接取材したときの言葉。

「正義って何なんだ。やっつけることが正義か。検察だけが正義で、あとは悪だというような、そんな理屈があるんかっ!」

この疑問にぶちあたった田中森一弁護士はヤメ検へ転じた。開業当初は検察の顔を立てながら弁護していた彼は、13年後の2000年3月、許永中と共謀して石橋産業から約百八十億円の手形を騙し取ったとして古巣の東京地検特捜部に逮捕された(石橋産業事件)。

田中森一弁護士の物語は一見すると検察幹部や最高検の圧力が「特捜検察の闇」のように映る。しかし事件には別の構図が潜んでいる。それは、石橋産業事件の捜査は「田中を逮捕したい」という検察の「不純な動機」によってねじ曲げられたものだという。

筆者はかつてロッキード事件や大型疑獄事件に携わった検事たちを取材してきた。だからこそ「不純な動機」という恣意的な思惑から事件の構図を描く事実が存在するとはわかに信じられなかった。それが取材を通じて「あり得る」という結論に至っていく。

安田好弘弁護士の場合もテレビドラマさながらの逆転劇が裁判でおこる。検察側のミスからはじまる。「証拠のなかで自分たちが描いた構図に合致する部分だけを(証拠から)うまく切り取った」だけで起訴したうえ、裁判にのぞんだ。驚くべき実態。

弁護側から証拠能力の不備を追求され一気に形勢が逆転していくくだりを読んだとき、開いた口がふさがらなかった。

ただし、「特捜検察の闇」が明らかになったからといってそれを嫌悪したり批判するのは短見。両者の事件は筆者の取材にもとづいた弁護士側の視点であって、検察側の反論もあるはず。現に本書を読んだ検察幹部は激怒したわけで。そこには何かしらの「主観」が伏流しているのだろう。

むしろ私たちに問いかけられているのは司法の変容に対し「ちょっとまてよ」と立ち止まって自ら判断提示できるかだ。

いま法曹界で進行しているのは、この当事者主義の精神の空洞化だ。弁護士たちが自らの在野性をかなぐり捨て、不良債権回収の「国策」に吸い寄せられたり、捜査当局を利する「刑事弁護ガイドライン」の創設を言い出したりするように、検事たちもまた真実の追究という自らの職務を忘れて単ある国策の遂行者に成り果てようとしている。同P.254

憲法や刑事訴訟法は裁判所・検事・弁護士のそれぞれに違った役割を期待している。裁判所には偏向なき中立公平な判断であり、検事には徹底した真実追究だ。そして唯一国家組織に属さない弁護士は、どこまでも被告人の権利を擁護し、不当な国家権力の行使に異議を唱えるように期待されている。

このバランスが今失われようとしている。なぜ失われようとしているかは無知の私にも咀嚼できるように書かれてある。大げさかもしれないけれど、裁判員制度の導入を目前にして私も司法へ参加する機会がやってくるかもしれないと考えたとき、自らの理性を停止して適切な判断を失いかねない危うさを再確認。