[Review]: 「責任」はだれにあるのか

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)

「やっぱり責任て、なんだかよくわからない概念だなあ」—–あとがきの冒頭の言葉が印象的に残った。昨年、「自己責任」とは一体何だろうと思い読了していた。昨今の鼎の沸くが如し責任論に閉口するたび読み直してみる。何度読み返しても答えがないという結論を導き出す。でも立ち止まらずに自分を少しでも前進させるにはどうすればよいかをその都度与えてくる。「責任」というなんだかよくわからない概念に正面から議論しようとした一冊。

凶悪な少年犯罪事件があるとメディアが煽るので、「親が悪い」とか「親の顔が見たい」などと言う人がいつも出てきます。私は、これはとてもよくないことだ思います。そういう軽率な断罪をすべきでない。もともと犯罪者に育てようと思って育てた親なんてほとんどいません。子どもは親の思ってもみないことをしまうわけです。酒鬼薔薇事件なども育て方との間にはっきりとした因果関係など認められません。『「責任」はだれにあるのか』 P.58

本書は

  • 第1部「責任」はだれにあるのか—自由主義社会における「責任」
  • 第2部「責任」とは何か—その原理を探る

の二部構成である。第1部では法的責任以前の責任や集団責任と自己責任について著者の見解を提示している。JR福知山線事故やイラク人質事件、刑法第39条、性関係における男女の責任、学校と教師の責任などの事例を用いた考察である。そのなかから「少年犯罪における親の責任」を意図的に引用してみた。

少年犯罪における親の責任を問うのがなぜ難しいのか?—–著者は3つの理由をあげる。

  1. 法的・社会的に見て、どこまでが「子ども」で、どこからが「大人」なのか、線引きが難しい。
  2. 少年の刑事責任と親の責任とは同一のもの、交換可能なものとして考えられない。
  3. 養育と犯罪の単純な因果関係が成り立つかどうかが不明

1. 諸国でも判断が分かれている。日本は14歳、アメリカは州ごとに異なる。うろ覚えで曖昧だと断っておくと、最近アメリカでは少年の性犯罪について死刑を適用せよという議論が沸き起こっているという記事を今年に入って読んだ(16歳未満や精神障害者の死刑は禁止という連邦最高裁判決が下されている)。著者自身は現在の14歳という年齢は妥当だと思っている一方で、厳罰主義者の「引き下げ論」には賛成しない。

2.「過去」と「未来」という性質の差異がある。刑事責任は行為者に責任を負わせるという「過去」の意味での責任である。他方、親の責任は主として「未来」にかかわるものである。ここに少年の刑事責任と親の責任を交換できるかどうかという難しさがあると指摘する。

3. 犯罪と環境との関係を一義的に決定できない。a.という育て方をしたからAという犯罪者になったなどという単純な因果関係は成り立たない。

では「親にはまったく責任がないのか」と言われるとそうでもない。だから難しさがある。それではどう考えればよいのだろうか。これについて著者は「求める責任」と「感じる責任」という精神科医の滝川一廣氏の指摘を「たいへん示唆に富んでいる」として紹介している。

「少年犯罪における親の責任」の下りについて、己の考えを体験的にうまく掘り下げられなかった。それでもわざとこの部分を紹介したのには「(私に子どもがいないくても)それでも」と考えたからだ。手前味噌を恐れず述べると、私は父親から「絶対に人を殺すな」「絶対に女の子を殴るな」「他人に迷惑をかけるな」の3つを中学校へ入学するときに忠告された。小学校の素行を母親から聞いて危険を察知したからだろうと今からすれば思う。3つめは未だに守れていない。そしてふと思う。なぜそんなことを面と向かって戒めたのか。父親は3つ以外に、「ええか、喧嘩は勝たなあかんど。せやけどな、取り返しのつかへんことだけはしたらあかん」と矛盾した(実は矛盾ではないが当時はそう思った)ことを言っていた。反抗期真っただ中の私は「なに訳分からんこと言うとんねん。せやったらどないして勝てっちゅうねん」と憤懣やるかたなかった。

何が言いたいか。つい最近起こった事件の報道とあわせて考える。「相手の未来を略奪し自分の未来を失うことが間尺に合わないか」との指摘が少ないように感じるのはなぜだろう。おそらく私の見聞が狭いだけだろう。この場合、「愚か」と指摘するのかもしれないが、それほど私は良識をそなえていない。だからあえて間尺にとどめておく。”逃げ場””進学校””医者””重圧”といったキーワードはよく目にする。それを目にした瞬間、ああまたテンプレかと思考停止してしまう。しかしである。

「君が犯した犯罪が罪ではない。妻(名前)・子ども(名前)・私の希望や夢といった未来を奪ったことが罪である」

正確でなくて申し訳ない。ある犯罪被害者が高裁での意見陳述が認められて述べた言葉だ。

本書はあとがきで断られているが、主に「事後責任」について考察している。「事後責任」は何か不祥事が起きてしまったときの責任であり、何か不祥事が起こる背景には偶発性・偶有性が伏流している。偶発性・偶有性があるゆえにもたらされる「責任概念の本質的な不条理性」は消し去れない。だからこそ不祥事に対する毀損感情はやすやすと収まるものではない。よって「過去」に対する責任のまっとうの仕方に一般的な解決はない。「ない」ものを前提に「あった」過去に「責任をとる」という形式が存在する。この構図へ真摯に向き合う著者の姿勢がある。「事後責任」を深く洞察する著者に比例するように私の中には「未来」が増大される。著者は「未来」の責任に対して少しだけ示唆を与えてくれている。

未来も具体的な「見積もり」というかたちをとりつつ、私たち実存者の手元にたぐり寄せられて「ある」。[…]ちなみにこうした態度様式は、ほとんど人間だけに特徴的な態度様式です。[…]責任という概念は、これらの態度様式を人間がとれるということに密接なかかわりをもっています。責任の概念をもつのも人間だけです。そもそも、この概念が成り立つのは、私たちの実存にとって「未来」がこのように「見積もり」として手元に常にたぐり寄せられてあるからこそ言えましょう。フランクルは、過去の現前性を責任概念の根拠としていますが、私の考えでは、未来の現前性もまた、責任概念の根拠の一部をなしているのです。しかもその事実は、責任概念の本質的な理不尽さ、不条理性とに深いかかわりをもっています。同P.178-179

「相手の未来を略奪し自分の未来を失うことが間尺に合わないか」—–社会の成員としてこれを伝える労力を厭わずいようと自戒した。わかりにくいことをわかりやさすく伝えるのではなく、そのまま伝える忍耐力を私は備えているかと自問させられた。