暴言と暴力、抗える力がほしい

ジダンの頭突きに仏社会が揺れている(参照)。真相は近日中に発表するとのアナウンスもあったらしいが、今のところプレスされている内容は憶測の域をでていない(参照)。また真相が公表されたとしても言った言わない先に言った言わないの水掛け論に陥る可能性もある陥りかけている(参照1,参照2)。先を越すかのごとくイタリアのマテラッツィ選手がコメントしている(参照1,参照2)。刻一刻と報じられる様を眺めつつも事態の解明には時間がかかるのかもしれない。それを承知で今思うことを推測の記事から臆断する。もし仮に何らかの"深刻な言葉"が事実(もしくはそれに近い)であるならばどのように立ち向かえばよいのか悩む。記事にはこうある(参照)。

耐えられない暴言を浴びたのだろう。沈黙を貫く当事者に代わり、ブラジルのテレビ番組で読唇術の専門家がマテラッツィの発言をチェック。「おまえの姉さんは売春婦だ」と2回繰り返したと分析した。ロイター通信は「母親を侮辱された」と報じた。一方、英国紙ガーディアンは「テロリスト呼ばわりされたのでは」。静かなる男の突然の暴発に、様々な推測が乱れ飛んだ。しかし、どんな理由であれ暴力は許されない。国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は「彼の気持ちは理解できるが、行為は許すことはできない」と手厳しかった。

いかなる"暴力"も許されないとしたら、この言葉の暴力に私はどう抗えばよいのか。私は己のなかで"暴力"に訴える一線をもっている。ただし可能な限り自ら乗り越えることができないほど高い一線でありたいと望んでいる。しかし、もし家族についてのかような侮蔑的発言を私が受けたのなら躊躇なく一線を飛び越えるだろう。

右、浅学で詳細はおぼつかない。むかしどこかの国の人が「万人の万人による闘争が人の自然状態である」と警鐘した。その原意を推し量れない。とはいえ頭ではなく身体で少し理解できる。「戦う」を前提にした傍若無人な己であることを自覚し、それをいかに抑制するかの一線を己に設ける。

ノーガク。「戦わない」を前提に自然状態に寄生するほど私は強くない。「戦う」とは物理的に何か危険が襲ってこないかぎり行使すべきでないのかもしれない。他方、「暴力」はビデオテープが証明しているように、"一方的"に行使する行為なのかもしれない。「戦う」と「暴力」の差異はどこにあるかなど蒙昧の私にはわからない。ただ「戦う」を前提に「戦わずして済む方策」を放棄しない。「戦う」を前提にした「戦わず」の矛盾を受け入れたい。

しかし物理的に何か危険が襲ってこなくても言葉的に危機が襲ってきたのならどうするのだろうか。それに対して何かしらの"制裁"を加えたとして、それはその個人に与えられるだけである。決して国家ではない。FIFAが発言内容を調査した結果、報道されているとおりの人種差別発言だという前提で言い散らす。もしFIFAが人種差別問題に本気に取り組むつもりでかつジダンの行使した"暴力"を心底批判するのなら、国家に与えた杯を取り消し両国とも杯を授けるに値しないという裁定を下してみてはいかがだろうか。その判断が与える影響に関係者各位が向き合った時、「言葉」で思考するとわずかに期待したい。

その決断を目の当たりにした時、私は己の未熟な一線をさらに引き上げる努力をすると思う。言葉の力など私は信用しない。言葉が時に無力というのも信用しない。言葉はそれ以上でもそれ以下でもない。私が発話する言葉は決して肉体的・物理的に痛手を負わせない道具であり、同時に気づかないうちに眼に映らなくても壊滅的に痛手を負わせられる道具であるだけだ。「信じる」という賭け金を置くほどの物体でも事象でもないと思う。とにかく扱いを間違えないように自省するしかできない。その言葉がふるう"暴力"にどう抗えばよいのか私はわからない。