自殺しろを電波にのせるのか

愛読ブログのひとつ佐藤秀さんエントリーを読んで電波も凶器になってどれぐらい経つのだろうとナルになる。ライブで視ていないのでエントリーのとおりに解釈する。「自殺しろ」といったテリー伊藤にせよ、「低次元の人間である」といった黒鉄ヒロシにせよ脊髄反射的にコメントししているのなら、チャネルを即座に変えるか、怒るでもなくクールにウンコとつぶやいて憐れんで放置プレイでモウマンタイ。

ではなくて、「こういっておけば視聴者も賛同するだろう」と"ポーズ"的コメントであったならそちらのほうが寒気がする。「自殺しろ」といっても黙認される雰囲気が電波にのっている。あたかも「みなさんの気持ちを代弁してますよ」的な番組構成になっている。(「自殺しろ」というコメントが視聴者に)「ウケる」と思っていたり視聴率が上がるとほくそ笑んだり、そういった"フリ"をしたコメンテーターが食い扶持をかせいでいる姿とその姿をヨイショしている番組に我が身は震える。

"カット"された映像とタイミングよくはさまれるワンフレーズを目の当たりにすると、エンジン停止する自分を感じる。だから「一切視ない」を決め込んでいる。なもんで字面だけおっかけていくと長野アナの言動やこんな記事を読むと首をかしげる。

秋田地検は17日、豪憲君に対する殺人罪で起訴し、この後、能代署捜査本部は18日にも、彩香さん殺害容疑で再逮捕する方針。早期に事件として捜査していれば、豪憲君殺害事件は避けられた可能性もあり、彩香さんを「事故死」とした秋田県警の判断が問われそうだ。

県警の責任を問うのはわかるにせよ、「その前」がなかろうか。サイトで橋の写真を見たとき、欄干から約8メートルある高さから「突き落とされた」なら県警の検視報告どおり「頭部の軽度の骨折以外ほぼ無傷」であるのだろうか、と訝った。そうかと思えば、「突き落とした」とする橋の下流に堰はなく、頭部などの骨折以外に目立った外傷がない遺体の状況と供述に矛盾がないと報じる記事もある(参照)。そうか、矛盾がないのか、だとしたら私のバカで終わるのかもしれない。それでも一応記しておく。

容疑者が「突き落とした」と告白(A)→「事故死」とした県警の判断(C)

いきなりA→Cに線をのばしている。Aが今までさんざん虚言であったにもかかわらずだ。事象が「事故」から「殺人」へ変容したとたん、「虚言」を疑う度合いが小さくなってきた。「やっぱり」の空気が支配している。虚言といえば「頭部の骨折」もどちらがどうなのか。「軽度」と報じる社もあれば「かなり大きな傷」ともある(参照)。そして詳細もわかってきた(参照)。が、なぜ今になってだろう。検視というのはそれぐらい時間と手間がかかるものだろうか。素人にはこのタイミングがよくわからない。目撃談も右に同じ。

"事件"が起きたとき人それぞれの立ち位置があり、視点をどこに置くかで見解はかわってくるだろう。それを承知したうえで感じる。報道やら解説とは思えない、なんだか鵼のようなというか、遠山の金さんみたいな放言が多いとしたら、「気をつけろ」と己に信号を発し続けなくてはならない。何が起きて、それに対して私は何を考え、少しでも行動につなげていけばよいのか—–これらが思考停止にならないように。