TPO、本を読む、ゆとりと受け取られる寂しさ

TPOをわきまえてトピックを選ぶふるまいがまだまだ甘い。もっと自重しなければならないのだろう。ひけらかすものではない。何よりも対話には相手が必要なのだ。その相手が望まないトピックを選んでしまう自分に嫌気をさす。そして、そのトピックが「仕事」にまつわる以外の話であるならば、相手には「余裕がある」と映ることをカウントしておかなくてはいけない。たとえ自分は「余裕なんてあるはずがない」と反論しようとしたところでそれは「嫌み」に化ける。

サービス業にしか携わってきていないし専門知識を持ち合わせていないためか、「仕事」の話題だけが仕事ではないと勘違いしてしまっているようだ。置換すれば、専門的知識を土台にした会話ができない嫉妬なのかもしれない。言い訳すると、たとえば時事問題やスポーツ、文化、歴史などについて会話することも「仕事」だと思ってしまっている。というのも、たしかにそれらに興味がある。しかし、それ自体(時事問題・文化・歴史について語る)が目的ではない。私の場合、それらを「話のネタ」にして相手の思考回路を理解したいのが目的だ。別に「話のネタ」について知っているか/知っていないかとかに興味はない。

眼前の方々がどのような理路をたどって口にしたのか、そして口にされた言葉の背景には何があるのかを理解したいのだ。統合作業ともいえる。なにを統合するのか。どこまでいってもわかりあえない(かもしれない)「メタ」を可能な限りすりあわせて齟齬をなくしていきたいという願いを勝手に「統合」と名づけた。語彙力が貧困なのでいまは「統合」とよんでいる。これから適切な表現を発見できれば変わる。「メタ」とはなにか。目の前の人は私には「A」と映るかもしれない。ところが当の本人は「B」とふるまっているかもしれない。わかりにくい。というよりもまとまっていない。

わたしからは「A」に映り、彼(彼女)は「B」とふるまっている同一人物の上位にあるもの、それが「メタWHO」ではないかと最近感じる。そしてタマネギの薄皮をはぐように中心(メタな部分)へ近づけさせてもらえれば、ごくごくわずかだけ「わかった」と思えるのかもしれない。

そう考えながら仕事で人に接していると、何も「仕事の話」だけが「仕事」ではないと思えてくる。先のような話題を堪能していくうちに、もしくは堪能できるような空気を醸成していくうちに相手の理路がおぼろげながら想像できるようになってくると期待している。もし想像できれば、相手の理路を「仕事」にトレースしたらどうなるだろうと考えられる。

で、やっぱりわからない。だから何度でも対話を重ねる。私はつくづく自分が馬鹿だと痛感する。それは人と話をすればするほど体感できる。なぜか。常に自分の言葉で考えている(と思う)人と私には「落差」がある。それが身にしみる。その「落差」を認めている。でもあきらめたくないから他人の思考を頼る、借りる。つまり「本を読む」。とりあえずは他人の言葉で見繕う。一知半解の知識をまとう。そうでもしないと何一つ己を表現できない。人と話すのが怖いのだ。馬鹿と思われたくないという強烈な恐怖感がある。これは理屈で説明できない。とにかくこわい。だから一心不乱に本を読む。

そしてそれらを語ると、他人から本を読む"ゆとり"があると受け取られる(もちろん裏側で私が退路をどのように構えているか知ってもらう必要はない)。この構図が皮肉かどうかは私にはわからない。とはいえ出会う人々に対して一様にふるまっている自分が情けない。もっとTPOをわきまえてふるまわないといけない。時には相づちといくつかのコメントを残す程度であってもいいのだと思う。別に無言でも失礼でないのかもしれない。いかに場の雰囲気を壊さずにふるまうか。そしてそれができない、もしくはやりたくないのであれば、人脈よりも出席しないという選択もひとつなのかもしれない。なによりも一人で仕事をしている反動が強く作用している。もっと素直に言い換えれば、自分の知識をひけらかしたくて仕方がないのだ。座談している自分を背後からそっと眺めた時、それを自覚できるから自己嫌悪に陥る。これではいつまでたっても進歩しない。むしろどんどん幼稚へと退化している。どのようなふるまいが適切であるかは当分わかりそうにもないだろう。それにしても内田樹先生が考想するような「オトナ」へはどうすればなれるのだろうかと、久しぶりに「どうすればいいのですか?」という愚問を自分に投げかけてしまい、ほとほと困った。答えはひとつ、「そんなこと自分で考えろよ」なのに。