リブサンドポークと帰納的推理

先日、大阪のロッテリアでリブサンドポークを食す。ロッテリアが好きなのではなく、リブサンドポークが好きだからゆく。"コレ"しか食べない。いままで瀬田、浜大津、山科、京都、大阪、鶴橋…数々のロッテリアへ足を運んだ。そのたびに「なぜリブサンドポークが食べづらいのか?」という謎が頭によぎる。リブサンドポークには3つの特徴がある。

  1. 2回に1回程度の割合で3-5分待ちに遭遇する
  2. 包んでいる紙が大きすぎて開封するまでまごつく
  3. スマートにたべられない

毎度食べるたび「食べづらい」と感じる。わたくし的には味がイケていると思うだけにとても残念。なぜ食べづらいと感じるのだろう。それがこの間氷解した(遅い)。3.に関係する。なぜか?

「最初からきれいにはさまれた状態ではない」

私家版・ユダヤ文化論食べはじめてから長いサンドのかたちが崩れるのではない。すでに崩れている。たとえば、サンドからポークやレタスがはみでている。ここまで写真と実物が一致しないとほほえましい。しかし、ちょっと待てと己につぶやく。いくら滋賀・京都・大阪のリブサンドポークだけを食べたからといって、この推論は的を射ているのだろうか。先日読了した『私家版・ユダヤ文化論』が言及している。

帰納法的推論というのは、いくつかの単称言明(「P1はQである」「P2はQである」「P3はQである」…..)を列挙した後(このリストには終わりがないので、実際には「列挙に飽きたときに」)「すべてのPはQである」という全称明言を導く推論形式のことである。帰納法の長所は、一度仮説を立てた後は、その仮説に合致する事例だけを選択的に収拾すればよいので、知的負荷が少ないということにある。帰納法に欠点は、一度仮説を立てた後は、その仮説に合致しない事例から観察者は無意識に視線をそらすことができるということである。[…]帰納法的推理の最大の欠点は、かりに過去のすべての事例に当てはまる法則があったとしても、それが未来の事例にも当てはまるかどうかを権利的にはいうことができないということにある。同P.110

「瀬田のリブサンドポークは食べにくい」「浜大津のリブサンドポークは食べにくい」「山科の…」から「ロッテリアのリブサンドポークは食べにくい」と導くのは知的負荷が少ないと諫める。

確かにそのとおり。が、同時に頭を抱える。顧客は手持ちの情報からしか仮説を導き出せない。つまり顧客がお店を判断する依拠は、多くが帰納的推理ではなかろうか。これを演繹的推理に変換して検証できるのはお店側にあると思う。ではお店ならどのような手段を講じられるか、とリブサンドポークを食べながら考える。

くどい。アンケートでいいだろうと頭の中で反論する。なるほどと賛同しても腑に落ちない。リブサンドポークはおいしいけど食べにくいと感じるお客が1人いる。10人、100人が感じている可能性があるのかどうかを調べるのはアンケートでいいのかもしれない。そうではなく、「最初からきれいにはさまれた状態」でトレーに置けば食べやすくなるのではないかと「予言」し、それを検証する手段であり、その「予言」が他の商品に当てはまるのか検証する手段。

自分でもよくわかっていない。わかりやすく説明できない。口をモグモグさせながらそんなことを考えたのか。そもそもなぜ「最初からきれいにはさまれた状態ではない」のかがわからなかったからだ。包装紙を開封した時点からいきなり崩れいている。先の1.に記したように、リブサンドポークはたいてい3-5分待ちが多い。常時オーダーされるものでないのか、はたまた作り置きできないのかよくわからない。いずれにせよ、「あるものをだす」のではなく「ないものをだす」。できあがってからトレーにのるまでのタイムラグが少ない。だとしたら、工程を想像してみると少し首をかしげる情景がうかぶ。その情景がロッテリアのマーケティングポジションの一因になっているのかもしれない—–と推論するのが帰納的であり知的負荷が少ない。

少ないかもしれないけれど、お客は「ちょっとしたこと」でお店全体の印象を決定してしまうと感じるのも無謀だろうか。