逮捕者続出の京都市の裏側

そう日が経ってないと思う。ある大学の教授が関西の公務員の不祥事を番組で厳しく非難していた。「公務員の不祥事と対処」について研究しているらしい。たしかこの教授は選挙番組になると解説者としてテレビに顔をだす。今年に入ってから発生した近畿圏の不祥事を紹介。そのなかの京都市に納得いかず。「この人、わかってて公表しているのかなぁ」と訝った。わかっていればかなり腹の立つ話だ。知らないのであれば無神経。京都市長が発言した(参照)。

今年度に入って職員の逮捕者が8人にのぼっている京都市で27日、臨時区局長会が開かれ、桝本頼兼市長が幹部らに再発防止を訓示した。会議後、桝本市長は逮捕者のうち6人が環境局職員である実態を踏まえ、「同和行政の柱として行った優先雇用での甘い採用が大きな要因の1つ」と指摘。平成14年度まで行っていた現業職員の優先雇用制度も背景にあるとの認識を示し、制度も含めた「解体的な出直し」を図る意向を表明した。同和行政のあり方が大阪市などで論議されているが、自治体の首長が採用問題にまで踏み込んだ発言をするのは異例で、波紋を広げそうだ。

京都市には少なからずこういう事情がある。教授はわかっていてスルーしているのかどうか、苛立つ。私が軽々に論じる問題じゃない。高校在学中、生徒会を中心に同和行政や在日朝鮮人社会を頻繁に論じた。歴史的背景から現在までをとりあげた。今からふり返るとおしむらくは(多数のリベラル派先生の影響もあって)リベラル派の道理のみが俎上に載ってしまっていたことだ。

それ以降、成年になってから書籍で目にする程度、特に自らかかわっていない。だから”私は”と述べられない。ただ眼前の教授に「知らないなら短見だし、知っているなら背景を説明しろ」と吐き捨て不快感が残った。不愉快。

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

『野中広務 差別と権力 (講談社文庫)』 魚住 昭 が政治と同和問題に詳しい。野中広務氏自身が被差別部落問題についてどう考えているかわかる。京都の同和行政が利権化しつつあったこと、上記記事にコメントしている部落解放同盟京都府連合会の役割もうかがえる。要約程度とはいえ、部落差別は江戸時代の政策を中心とした「近世政治起源説」に端を発するのではなく、「ケガレ意識」を核心とした中世起源説にあると紹介したり。そういった歴史的背景を知ることもできる。

政界に伏流する意識を象徴する言葉がさいごに登場する。麻生太郎氏へ放った野中氏の言葉。私見をことわると、麻生太郎氏にいささかの私心もない。それなりにバランス感覚をもっておられる政治家だろうと推察。2003年9月21日、野中氏にとって政治家最後となる自民党総務会。

「総務大臣に予定されている麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で、『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をとり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

『野中広務 差別と権力 (講談社文庫)』 魚住 昭 P.392

本書は野中広務氏に焦点をあてている。本書を斥力として「差別」へと私は踏み分けていこうとする。しかし、毎度小骨が咽に刺さったままなのだ。内田樹先生の言葉を拝借。

ユダヤ人問題の根本的なアポリアは「政治的に正しい答え」に固執する限り、現に起きている出来事についての理解は少しも深まらないが、だからといって「政治的に正しくない答え」を口にすることは人類が犯した最悪の蛮行に同意署名することになるという点にある。政治的に正しい答えも政治的に正しくない答えも、どちらも選ぶことができない。これがユダヤ人問題を論じるときの最初の(そして最後までついてまわる)罠なのである。

『私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)』 内田 樹 P.7

ここから導き出される推論は、「差別問題」を発話する私の行為自体が「差別や偏見を助長するものだ」(記事コメント)になりかねない情態をさす。だから”罠”を回避しつつそれ以上問題へ接近しようとしてもできない。ではどうすればよいのか。内田樹先生は、「問題の次数をひとつあげろ」というが私にはなかなかそうふるまえない。

野中氏は差別する側と差別される側のどちらにも与せず、被差別部落出身者の自立(いかなる支援もうけない)をめざしてこの問題を解決すべく権力へのぼりつめたのか。だから複雑な評価を下されるのだろうか。まだ現代であるかぎり、「政治」として判断されても、「歴史」として評価されるのはこれからになる。筆者の魚住昭氏と面談したとき、「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているのか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」と涙をにじませて睨みつけた。損害賠償を請求してもおかしくないのにそうしなかった野中氏が印象に残った。