親子で語り合うものなのだろうか?

asahi.com: 「侵略」と「責任」見据えて 親子で戦争を考える

戦後61年の夏。今や親も子も戦争を直接には知らない。しかし、戦争の体験がないからこそ、わだかまりなく歴史を見つめることもできる。日本の敗戦で終わった、あの戦争は何だったのか。その責任は、だれにあるのか。いろいろな本を手がかりに、親子で語り合ってみてはどうか。

13日付朝日新聞社社説がわからない。子どもがいないので拍車をかける。さりとて自分が子どものときを絞り出すしてたぐり寄せても記憶にない。そもそも「「侵略」と「責任」見据えて親子で戦争を考える」ものなのだろうか。それよりか性をしっかりと語り合う、宗教をつぶさに調べてみるほうが肝要なのではないだろうか—–のテンプレートを言わない。私的。この三点に禁忌のような気配を感じる。性は少し粗雑にあつかったかもしれない。もう少し腑分けが必要かもと断って捨象。論じる素材は違えど、共通している風景を想像。親子で語り合う勇気というか、緊張感というか、氷水に身体を沈めるような強ばった空気。たらればで説得力がかけるが、私が父親なら他に胸襟を開きたい。

あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書左を書棚からひっぱりだす。ちょうど一年前なのでカチッとおぼえていない。もう一度パラパラめくる。なるほど、「大人のための教科書」なんてサブタイトルをつけるだけあって、太平洋戦争終結までよどみなく流れる。途中、発言せざる昭和天皇が"怒った"二・二六事件をターニングポイントに指定し、真珠湾から快進撃、そして泥沼へ進み様を解説。その背景には「軍部・内閣・昭和天皇」の三角形を描いている。戦争を真正面から取り組んでいない愚生なんぞにはよくできた新書だなぁと感じ入った。が、それでも評価は二分する。

社説がさらりと使用している「統帥」。釣り、あるいは社の癖かもしれない。意図を伺えるよしもない。少し身震いする単語をあっさりとちりばめるなぁというのが率直。最近は、左右のイデオロギーにとらわれずに戦争を直視する本が目につくと書きながら以降につづく文意がすでに「寄って」いる。イデオロギーを脇に置いて論じてこなかったことを省察せずに「統帥」を使うあたりにげっそりする。自身が証明している。イデオロギーを捨象して戦争を語る難しさ。それを親子にスライドさせられるほど内なるコンセンサスが得られているのだろうか。

本書を読めば、「統帥」とか「参謀本部・軍令部と軍部の関係」、昭和天皇の位置あたりを平明に説いている。それとてプロフェッショナルやアカデミックからは「おいおい」とツッコまれる(のかもしれない)。この先、足を踏み入れられるほど知性を宿していない。極東ブログさんが秀逸なエントリーを記されている(参照:統帥権についてささやかなメモ)。ただわれ無骨なりといへども頭の引き出しにいれて8月以外でもおりにふれひっぱりだせる位置にだけは立っていたいと願う。以下、本書の冒頭の言葉。これを親子で確認しあえば事の半分は足りているのではと思う—–のは子を持たぬ大人の傲慢か。

ロンドンには「戦争博物館」というものがある。ここには第一次世界大戦の歴史が淡々と展示されている。ナチスドイツの制服や武器と言ったものまでもドキュメントとしてある。しかし、決して非難めいて陳列されているわけではない。また館の入口には館長の言葉として、こう書かれている。「展示をしっかりとご覧下さい、全て現実にあった出来事です。そして後は自分で考えることです」と。『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書』P.8