そうですね、と言わない斎藤投手

初戦からできるだけ観てきた。ふと気づく。「ああ、斎藤投手は”そうですね”と言わない選手なんだなぁ」と。特段、そう思った理由はない。最近のスポーツ選手のインタビューを眺めていると、インタビュアーの質問に対して答えるとき、「そうですね」から始める選手が多い(と感じる)。

“そうですね”という言葉は、ふつう「同意」もしくは「肯定」で使うはず。が、最近の”そうですね”は必ずしもそうではない。耳をすましてみる。「あとに肯定の意味が続かない」にもかかわらず、”そうですね”が”付く”。付くと書いたのは、なんだか枕詞のような印象を抱いたから。

これが何を意味するのかなんて私にはわからない。同意や肯定でない”そうですね”があり、それがいつごろからか画面に登場した。それが事実。ただ、なんとなく「やりづらい」のかもしれないなと思った。別に根拠はない。画面から感じる雰囲気を自分に問い合わせてみたらそういう答えが返ってきたにすぎない。だから、画面に映るやりとりに微妙な「ズレ」を感じるのは私だけなのか、に私の関心はうつる。「質問している返答に”そうですね”って返して後に続く意味が違うのに」とか「同意を求めるような質問でもないのに”そうですね”って返すのか」なんて首をかしげて、「なんだか妙なやりとりだなぁ」と独りごちる。

でも斎藤投手はちがった。今までから今日のやりとりまで”そうですね”がでてこない。なぜだろうか?と首をかしげる。そして、”そうですね”がでてこない「やりとり」を聴いてみると、「釘を使わない日本古来の建築技法」を観ているようで感嘆した。

「ああ、オレだけかもしれないけれど”そうですね”がないのはこんなに心地がよくてしっくりくるのか」と思った。よくわからない。でもなんだか身体がそう反応するのだからそういうものなのかと得心した。

ただ、ひとつだけ。私が記者なら斎藤投手に質問してみたい。

「なぜ斎藤さんは”そうですね”と言わないのですか?」

佑樹―家族がつづった物語