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[Review]: 「おろかもの」の正義論

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「おろかもの」の正義論

「正しさ」という言葉を知らなかったのが少年時代。「正しさ」はいつもひとつあると思ったのが青年時代。そして、「”正しさ”っていったい何なんだ」と彷徨しているのが今。歳を食うごとに「何なんだ」が居座る。不可思議。会社勤めしていたとき、「君の言うことは正しい」と納得されても、「そのとおり」にならなかった経験をした。なるほど会社とはそういうものかと納得して「社会人」になった気がした。

「正しさ」は、人を超えた上位の存在が定めたものではない。人の内奥の神秘でもない。「正しさ」は人の上にもなく、心の中にもなく、人と人との間にある。そして人と人との約束事であるということは、主観でどうにでもなるということではない。約束事の中には、ほとんど揺るぎなく決定されるものもある。そして、見事に約束することもできれば、無様に約束することもできる。人と人の約束事には理も必然もあるのだ。本書のねらいは、神の絶対に救いを求めずに、人の内容に引きこもらず、立派委に約束事を作り上げるために、「正しさ」の理と必然を、具体的に、誰にもわかるように解き明かすことにある。「正しさ」を定める規範とその原理は、誰にもわかるように語られなければならない。[…]「正しさ」は人に理解されてはじめて「正しさ」としての力をもつ。納得して「正しい」と思うことによって人は規範に従うのだ。

『「おろかもの」の正義論』 小林 和之 P.14

価値、自由、殺人、脳死、死刑制度、不妊、国家、民主主義…..。本書は重い話題が俎上に載せる。どれも新書一冊でまとめられる分量ではない。にもかかわらず、それらについて「正しさ」を真摯に向き合っている。韜晦も皮肉もない。淡々と「正しさ」を探求している。圧巻は、「正しさとは何か?」と問いかけても「正しさとはかくあるべきだ」とは述べていない。「ひとつの正しさ」を導き出していない。だから均衡のとれた筆者の「正しさ」が導き出されているのだが、その導き出し方に厖大な知識と緻密な思索と叡智が宿っているから圧倒される。私には反論できるはずがないけれども、かりに反論できたとしても黙って筆者の思索にふれたくなる気持ちにさせてくれた。

昨日、報道ステーションに麻生太郎外務大臣が出演するとラテ欄にあったので視てみた。

政治家に「正しさ」を求めること自体がナンセンスという意見もあるだろう。しかし、私はそういった「求めること自体」と設定できるような「正しさ」を有していないので、眼前のやりとりを視ながら自分なりに「なにか違うなぁ」と感じた。

それを言葉にしたくて本書を本棚からひっぱりだしてきてパラパラとめくる。付箋の貼ってあった場所に目が止まった。

わたしがしようとしているのは、現状を非難することなくありのままに見つめ、そこを出発点として前に進む道を探ることなのだ。居直らず、諦めず、居丈高にならず、ふて腐れず、半歩でも前に進むにはどうすればよいかを考えることなのだ。同P.216

古館氏や加藤氏は視聴者を代表していると構えているのだろう。それも「正しさ」だと思う。彼らの「正しさ」は”彼らの側”にある「(正しい)前提」から放たれる。「谷垣さんは言明しているからわかりやすいけれど麻生さんはそうでない」的な論法で「解」を迫る。「わかりやすいがいい」が伏流している。が、そもそも彼らは「なぜはっきりと答えてもらう必要があるのか?」という質問を、麻生さんの「正しさ」から帰着するようにして発しない。この質問を発するには、麻生氏の「正しさ」に足を踏み入れないと帰着できない。「私の正しさ」から発しても相手は「あっ、そうなの」でいなす。なのになぜ「相手の正しさ」に足を踏み入れないのか。と、自問してぐるっと元に戻ってくる。

彼らの「正しさ」には「(正しい)前提」がある。その前提を麻生さんと共有できていない(しようとしない)のに、議論しても、それは「正しさの押し合いへし合い」と私には映る。「私が麻生氏に質問することによって私たち(=視聴者)の”正しさ”が確認できるでしょ、視聴者のみなさん」と私は僻んでしまう。

だから思う。「古館さんも加藤さんも自分の”べき”と”はず”を捨てて、問題の次数をひとつ繰り上げる質問ができないのかな」と。それは、「自分の”正しさ”を確認するため」の質問ではない。この気持ちを言葉にしようとして、筆者のP.216の言葉に漂着した。「半歩でも前に進むためにはどうすればよいかを考えるため」の質問であり、「立ち止まって井戸端会議をして散会するだけ」の質問ではないと思う。

民主主義で問われているのは、民衆の無知・無能・怠惰がもたらす危険と、権力者の圧政の危険と、どちらをとるのかということだという言い方をしてもよい。よいものを求めるのではなく、悪いものを避けるという選択だ。もっと皮肉にいうなら、民衆と権力者のどちらも信じられないときに民主主義と独裁(寡頭)制のどちらを選ぶのかという選択ということになる。[…]けっきょく、民主主義を選ぶかどうかは合理的な選択にはなりえない。どういう表現の仕方をするかはともかく、信念の問題に行き着かざるをえないのだ。あなたは人間が好きだろうか。仲間を信じられるだろうか。だからあえてそういう問い方をする意味があるのだと思う。P.212

右、余談。限られた時間のなかで限られない答えとはじめから想定できる質問をするのはなぜだろうか。古館氏が質問していたとしたら失礼。「安倍氏が世論調査で独走しているのには理由があると信じている人がいるのには理由があるのでしょうか?」—–これを麻生氏の口から視聴したかった。

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