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[Review]: 「対話」のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの

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それでも「対立」のない<対話>があるのではと愚考するのが筆者と対立する私である。

「他人の痛みのわかる人になろう」というスローガンに異存はない。だがこの国では、この標語が「自己の痛みの拡大形態として他人の痛みをわかる」という図式になりやすいのだ。これは危険な思想である。なぜなら、自己の痛みの延長としてしか他人の痛みを理解できないことになるから。私がつらいとき他人もつらいであろうとまでは言えるが、私がつらくないときでも他人はつらいかもしれない、という発想にはなりにくい。[…]自分がつらくない些細なことでも他人はつらいかもしれないのである。自分とは感受性がまったく異なっているかもしれないのである。だから、「他人の痛み」をわかるのはじつはたいへんなことなのである。

『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)』 中島 義道 P.189

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

わざとココだけ切り取ってみた。ココだけ切り取って、ココだけ読めば、「なるほど、そうだよな」と納得できるかもしれない。しかし、本書をはじめから読んで、筆者の言動にふれたとき、もう一度「そうだよな」と納得できるか自問してみたくなる。それほど、ココの裏側には「対立」がある。

ココを含めた「オリジナル」とココだけ切り取った「コピーしたオリジナル」は同じことが書いてあるのに、すでに「意味」は変化している。そして、ココ以外を知っている私がココだけ切り取って、ココだけをご覧になっている方々を「説得」しようとした。それが<対話>の難しいところなのだと私は思う。

<対話>とは他者との対立から生まれるのであるから、対立を消去ないし回避するのではなく「大切にする」こと、ここにスベテの鍵がある。だが、他者との対立を大切にするように教えても、他者の存在が希薄な社会においては何をしていいのかわからない。そうなのだ、本当の鍵は他者の重みをしっかりとらえることなのだ。他者は自分の拡大形態ではないこと、それは自分と異質な存在者であること。よって、他者と理解すること、他者によって理解されることは、本来絶望的に困難であることをしっかり認識すべきなのである。同P.190

賛同する。だからまた自分に問いかける。「私は対立しているのだろうか」。自分と異質な存在者を理解するのは絶望的に困難であるから私は他者を対に置かない。というよりも置けない。もっと強くいうと「理解しよう」としない。私は「私」に問いかけその答えを他者に「伝える」だけである。その問いかけるきっかけがすべて他者にある。自分のなかにはない。その「伝える」がうまくできない。そして、「伝える」が「対立」しているように他者から映るのであれば、それは私がまだ「私」を理解していない証左であり、私のなかの<対話>が足りていないと悔い改める。

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