[Review]: 本の読み方 スロー・リーディングの実践

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)

傍らにたまりゆく書籍、本棚に所狭しと押し込められた書物に目をやるたびに、「ああ、もっと本を速くよめたらなぁ」と嘆息する。で、実際、速読術なる本を購入してためしてみたけど、いまいち身体がしっくりこない。「ページを繰ること」に満足しているような錯覚に陥った。だからそれも挫折。で、結局、自分なりのテンポがあるだろうと言い訳しながらまた本にむかう。ただし、いつ頃からか、「何のために読むのか、この本をどう集約できるか、どのような日本語と文体で綴られているか」の3点だけ意識して読むようになった。あとは、予測しながら読む訓練をしている程度。そんなとき本書に遭遇。

本を速く読みたい!—–それは忙しい現代人の切実な願いである。しかし、速読は本当に効果があるのか? 10冊の本を闇雲に読むよりも、1冊を丹念に読んだほうが、人生にとってはるかに有益ではないのか? 著者は、情報が氾濫する時代だからこそ、「スロー・リーディング」を提唱する。作家はどのように本を読んでいるのか? 本をどのように読んでほしいのか? 夏目漱石『こころ』や三島由紀夫『金閣寺』から自作の『葬送』まで、古今の名作を題材に、本の活きた知識を体得する実践的な手法の数々を紹介。読者は、教科書で読んだはずの文章であるにもかかわらず、「目から鱗が落ちる」を何度も体験するだろう。

『本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)』 平野 啓一郎

三島由紀夫の再来と評された 『日蝕 (新潮文庫)』を立ち読みして、「何だコレ、こんな文体を書く作家が同世代にいたのか」って瞠目。その平野氏が執筆した「本の読み方」はどんなのだろうかと興味を抱き購入。

「やっぱり”速読”に対立軸があるなぁ」と感じた。『スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化』でもふれたけど、スロー自体にわたしは価値を見いだせない。問題は、「”何に”対してスローになるのか?」ということであって、「速いからわからない、遅いとわかる」といった軸を設定したくない。たとえば、How Toを吸収するだけが目的の本なら、手前味噌だけど新書なら1日もいらない。DVD一本の鑑賞をガマンすればことたりる。弾さんは、「私はトイレで読了した」なんてエントリーをのこしているので、そんな方はゴマンといるだろう。じゃぁ、仮に弾さんのような超速読者(超多読者でもある)は「理解」しておられないかというと、早計も短見、わたしなら一笑に附してしまう。

結局、速い遅いではない。筆者自身が述べている。

「スロー・リーディング」とは、差がつく読書術だ。その「差」とは、速さや量ではなく、質である。特別な訓練など何も要らない。ただくつろいで、好きな本を読むときに、ほんの少し気をつけておけば、それだけで、内容の理解がグンと増すようないくつかの秘訣をまとめたのが本書である。同P.8

「質」に差をつけるのなら、「他の人にない視点で本を読めるか?」であり、それには想像力を駆使したアッと唸らせる「問い」を作者に自ら発せられるかにあると思う。それを発するのに、「速度」は関係ない。”速い”人でもできるだろうし、”遅い”人でもできないかもしれない、とわたしは思う。自分を着飾るための服なのか、それとも身体そのものを鍛える訓練なのかを見極めることが肝要ではないか。見極められたら、「着飾るファッションなんだしざぁ〜と読もう」や「もういいかこれは捨てるか」ができるだろうし、訓練なら「毎日、少しずつ鍛錬する」から、同じ本を「何度も何度も読み返す」し「毎年読む」だろう。

遅い速いもいわば「一定の速度」だ。それは自分を固定して、「本を自分にあわせよう」としている。他方、自分を常にゆらがせていれば、「自分を本にあわせる」ようになるとわたしは愚考する。ある本を読むときは、(一定の速度から観測すれば)「速く」読み、また違う本を読むときは「遅く」読む。不変ではなく可変。ただし、本人からすると、「速いのか遅いのかどうでもいい」といったところか。なぜなら、「一定の速度」という概念からスローに脱却しつつあるからだ。それが「わたしと本との対話」がなせる書物にひそむ醍醐味ではないだろうか。

ともあれ内容はとてもすばらしいと賛同した。反面、サブタイトルがいかにも「商売っ気」が漂うネーミングなので残念。氏のエッセイを読んでいるとビジネスマインテッドでなさそうな印象をうけるので、ひょっとするとPHPの方が押し切ったのかもしれない。売るためには背に腹は代えられないのだろう。

本書に賛意を表した理由を独断と偏見でひとつあげるなら、「助詞、助動詞に注意する」ことを書いてある点。

文章のうまい人とヘタな人との違いは、ボキャブラリーの多さというより、助詞、助動詞の使い方にかかっている。やたらとたくさんの単語が使われていても、ちっとも胸に響かない文章もあれば、「ボキャ貧」であっても、妙に説得力のある文章もある。動詞や名詞を生かすも殺すも、助詞、助動詞次第である。助詞や助動詞が不正確な文章は、留め金がゆるんだ建物のようなもので、いくら建材(ボキャブラリー)が贅沢でも、見た目にも、また安定性という観点からも、大いに難アリである。同P.60

駄文を書き愚考しかできないわたしが評するのは、氏の経歴からすれば失礼千万にあたる。それを承知で述べるなら、「助詞、助動詞に注意する」はアウトプットした人がわかる「隠し味」みたいなものだと感じたから本書に感銘した。