聴けない私

昨日大阪へゆく。ミーティングに参加させてもらったのだが、いまの自分を如実に表したふるまいとなった。いまの自分とは何か?

聴けないわたしがいる。

帰りの車中、なぜ聴けないのだろうか自問自答してみた。いくつか切り分けないといけない要因(技術と心理など)はあるけど、端的に「自分の能力のなさを自分が素直に認めていないからだなぁ」とまとまる。

というのも、昨日出席させていただいた歯科医院のスタッフのみなさんはどなたも優秀である。「優秀である」と評するのが僭越なふるまいだろう。とはいえ、ほんとうにそう感じる。で、そういう方々を前にしたとき、「ああ、わたしが穴埋めできる点はないなぁ」とわたしは得心する。正確には「私が提供できる役割がないのかもしれない」とこましゃくれる。その途端、聴けなくなる。なぜ途端にフリーズするのか?

こたえはわかっている。「自分の役割を提供できないほど自分の能力がない」と素直に認められれば、虚心坦懐に「質問できる」のだと思う。が、それができないのは、何かしら「虚栄をはりたい」という気持ちがひそんでいるからだろう。その「虚栄」が時にぬうっと顔をだす。それを感じるのだが、なかなかうまくとりはらえない。とりはらえないままだから、先方から質問されたとき、あらぬかぎりの勢いで「自分の言いたいことだけ」を主張する。だから同じことを何度も何度も話す。3分で話せる内容を15分かける。尋ねられたことの「答え」をだらだらと話す。

そうではなく、「質問された質問で返す」ぐらいの心構えをもちたいと望む。というか、望んでいるはずなのに。以前、内田樹先生の書籍(だったとうろ覚えだが)で、「質問を質問でかえすのは高度な様態を必要とする」みたいなことを読んだ。それが高度かどうか愚昧にはわからないが、結局、「相手が何を言いたいのか引き出そう」とするなら質問を質問でかえす気持ちをもたないといけないのではないかと感じはじめた。

もう少し。わたしが顧客に提供できる役割は、道に穴があいていたらそれを埋めるお手伝いをすることだと思っている。時には、「穴があいてますよ」と指摘するときもあるかもしれない。が、「穴があいていない」とわたしが感じる顧客もある。もちろん、顧客からすれば平坦な道であるはずもなく凸凹だ。前進しようとするから穴があく。それはわかる。

しかし、わたしが「あっ、穴埋めできないな」と感じるのは、「この顧客はみずから問題を発見して課題を設定し、課題を実行する力を持っておられる」と判断するからで、そうなると「わたしの居場所はどこにしようか」ととまどうからだ。つまり、まだ「私」から脱することができない。そしてそれは「自分の能力を的確に査定できていない」わたしがいて、査定できない要因のひとつに「虚栄心」がある。

やっぱり、顧客との距離をとればいいのかに悩んでいる。ある企業の部長が私に言ったことがいつも頭によぎる。

「シンクセルさんはわたしたちに踏み込んでくるのをどこかおそれているような気がする。もっと遠慮せずに指摘してください」