あたりまえのなかにある平常心

『Yの真実』によると男が生涯のうちにつくる精子の数は二兆個。そのうち実際に生をうけるのはおおよそ二個程度か。今は二個にも満たない場合もあるだろう。その二個が歩む距離はヒトの距離感覚に置換すると、600kmを超える。600kmにおよぶ旅路の道半ばでほとんどが倒れ、最後まで到達できるのは200〜300。そして待ち受けている女と結ばれるのはたったの一個。

さらに10ヶ月後、不条理を与えられずに誕生する可能性はどれほどなのだろう。誕生してから我が思う天寿(長短ではない)を全うできるのは幾人か。中学時代の知人たちはある者は自ら絶ち、ある者は不慮の事故によって鬼籍に入った。わたしはといえば小さな命として誕生した。

こんな風に考えると、日常が奇跡なのかもしれない。でも、日常を奇跡や神秘とよぶには衒いがあるし、外連味が見え隠れする。だって、コレを書いていること自体、浸っている。他方で、そんな日常に感謝する。ただし、その感謝にも衒いや外連味がないといえば嘘になるだろう。もう少し、いやもっと己の次数を上げていかなければならないと切望する。

日常を感謝する自分に衒いや外連味を感じず、ただただ日常を味わうとは一体どういうものなのだろう。常に頭のなかには「あたりまえ」がある。あたりまえとは一体なんなのだろうか。今、自分がここにいる。父と母、祖父と祖母、そして…..という具合に時間軸をほんのわずかだけでものばせば、それが「あたりまえでない」のはわかる。でも「あたりまえ」が眼前にある。いつごろからか「あたりまえ」を求めるようになった。

なぜ求めるようになったのだろうと内観すると「平常心」にゆきつく。「あたりまえ」と「平常心」がわたしのなかで結びついている。結びついている意味や理由を、正直、私は説明できない。とにかく「平常心」があり、その平常心とは、「あたりまえ」を抱え込んでいる。「あたりまえ」をあたりまえだと感じずに、もっとふみこむなら気づかずに平静を保つ姿勢ではなく、「あたりまえ」をあたりまえだと感じながら微動だにしない自分。

そして、「あたりまえ」をあたりまえだと感じるときにも衒いや外連味が一切無い。そんな立ち居振る舞いはどんなのだろうか?—–そんな知覚したこともない事象をどうすれば想像できるのだろうかと日常にもどる。

ただただ平常心を身に纏いたいと渇望する日々。