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「疑問を抱いた人」と「疑問を抱かなかった人」の行動の結果に目をやらない

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茂木健一郎先生のクオリア日記の今日のエントリー、思い切りgeekで、space cadetでいいんだけどが私に問いかける

「気付き」のメタ認知を通して、人間はどんどん変わっていく。学習という視点から見ると、どんな経験も楽しめる。一生、完成型などない。創造的と言われる活動分野においても、99%は学習である。残りの1%に独自性のインスピレーションが宿る。

少し誇張すると、「気づきとは一体何だ?」ということをニュートラルな時間にいつも考えている。いや、「考えている」というよりもずっと意識しているほうが体感的には近いかもしれない。

先日、打ち合わせをしていたとき、先方がグループ会社社員のある言動を話してくれた。抽象的な表現になって恐縮だが、話の内容は以下。

「一人の顧客に二人のスタッフがいる(以下、AさんとBさん)。Aさんは顧客の説明に疑問をいだき、Bさんは疑問をいだかない。結果的に疑問をいだいたAさんによって、「事故」を未然に防げた」

その方に、まず私は尋ねた。—–"結果"の行動にフォーカスするのではなく、その結果になる前の"差異"に目をやる人はグループ会社の社内にいらっしゃらないのですか?

私の関心は、「疑問を抱いた」と「疑問を抱かなかった」という行動の結果ではなく、結果の前に存在する「差異」にある。ただし、差異と書いたが、これは私の赤貧な語彙でそう表現しただけであって、ほんとうは「差異」ではないのかもしれない。適切な表現が他にあるのだろう。とにかく今は便宜上、「差異」とさせていただく。

この(=AさんとBさんの行動の結果)差異は優劣ではない。「結果的に疑問を抱いたが、それは結果なのでそこに至る行程がある。その行程のなかで両者はどこで分岐したのか?」という点。

なぜ「差異」に私の眼が奪われるのか?それは、「差異」を突き詰めてゆくと「原因」がなんとなくわかってくると愚考するから。AさんとBさんが顧客の「言動」の何に「反応」し、何を「心象」したのかを「探索」しなくては、「両者の行程に生じた差異」を発見できない。そして、探索を進めていくと、やがて原因がつかめてくる。その原因は二つある。一つは、顧客の言動の「原因(=顧客側の原因)」であり、もう一つは、その言動に疑問が生じた(もしくは生じなかった)「原因(=スタッフ側の原因)」である。

「原因」がインプットされて「行程」をたどり、「結果」がアウトプットされるまでの全体のなかに「気づき」があるのだろうか?—–これが私の関心事。だから、その方から今回の話をお聞きしたときも、その最中、「AさんとBさんは"気づき"をどう考えているのだろうか?」と「何を"気づいた"のだろうか?」を愚考しつづけた。そして、「そもそも私がここで考える"気づき"とは何だろうか?」を問い続けた。

茂木先生のいう「気付きのメタ認知」の意味を私は知らない。単語を分解すれば、「気付き」も「メタ」も「認知」もわからない。ただ、この3つが合わさることによって、なにやら壮大な「行動」があるように感じ取れる。一朝一夕でわかるはずがない。矛盾しているが、「わかるはずもない」ことに先生はすでに答えを提示している。

でも、日常って、とにかく自分にはわからないこと、計り知れないことがたくさんある。そういうものに囲まれているからこそ、学習できるという側面がある。「わかりやすく」という素材は、本当は学習的ではない。

あはは、おもしろいなぁ。

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