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自分の言葉で語る

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椎名林檎トークよいなぁで、「セオリーやまねごとではなく自分の言葉で語っている姿ににじみ出る雰囲気」と書いた。なぜ、こんなフレーズを書いたのだろうかと自問すると、ずうっと昔からのあこがれに着地する。それは、「自分の言葉で語る」ということ。あいかわらず自分の言葉で語れないので、内田樹先生『知に働けば蔵が建つ』から拝借。

私たちは経験的に「他人のふりをして語る」ときの方が「自分の正味の本音だけを選択的に語る」場合よりも口がくるくる回るということを知っている。[…]「他人の声を借りて、定型的な語法をもって語る」と私たちはいくらでも語ることができる。ほとんどの人は、それが「語る」ということだと思い込んでしまう。そして、どうなるかというと、「他人の声を借りて、定型的な語法をもって語っている」という当の事実を忘れてしまう。それが自分の「地声」だと信じ込んでしまうのである。P.284

内田樹先生は、この「地声」を「ヴォイス」とよび、ジュード・ロウがナタリー・ポートマンに「ぼくはまだ自分のヴォイスを発見していないんだ」と語る場面があるとかつて書いた。このヴォイスは、いくらでもあふれるように出てくるから、「自分の声でない」と疑えない。さらにつづく。

だが、真に内省的な人間はそれが「調子よくすらすら出てくる言葉」であればあるほど、その起源が自分の内部にはないということを知っている。[…]「ところで、『こんなに調子よくしゃべれるはずがないもの』というこの自己省察の言葉を語っているのは『誰』なんだ?」という疑問が当然わいてくる。P.286

この疑問が頭から離れない。しかし、他方で「じゃぁ、当然にも「というこの問いを発しているのは『誰』なんだ?」となり、さらに、この問いもといったぐあいに「無限」に陥ってしまう。これを自己のなかでどう解釈すれば彷徨している。先生は、「無限」である「らっきょの皮むき」は、「どこまでいっても終わりがない」という意味ではないと説明する。しかし、私はまだそこへ達していない。

ただ、励みになるのは次の言葉。

「何か」が「私」を作り出すから、そのプロセスは「生成的」と呼ばれるのである。「私」を主語にして語ることにつねに「疚しさ」や「気恥ずかしさ」を覚えることの人間だけが、おそらくどこかで「私」に出会うことができるのである。P.286

「桜の木を視ている私」ではなく「桜の木が私を見ている」という奇妙な経験をして、平常心をまといたくて、今必死に「私」を主語にせずに語ろうとつとめている。そうすることによって数々のことに気づいた。また、「私」を主語にしなくなってから時間がゆるやかに流れだしている。

まだ自分の言葉で語れない。自分の「地声」を発見していない。しかし、ようやく「自分の言葉で語ってない」という言葉にすることはできた。むかしからずっとそれを切望していたが、それが一体何であるかすらわからなかった。これからも「ヴォイス」を切望しつづける。

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2 Comments

  1. Eさん、コメントありがとうございます。私も本当におどろきました。場所が場所ですからねぇ。前方から歩いてくるEさん、「へっ、マジ、なんで?」と我が目を疑いました。

    アレを拝読したとき、「ああ、この瞬間Eさんのお話をお聞きしたい」と思いました。ちょうど昨日訪問したクライアントとお話したのですが、私が悩むとき、「「不安」と「恐怖」のどちらの感情か?」と「自分でコントロールできることとできないことを見極められているか?」と常に自問するように意識しています。そうすると、自分との対話が始められるような気がするからです。

    シンクセルという他者を通じて何かを発見できるようでしたらいつでもお呼びください。お忙しいとは存じますが、ときには、Take Your Time(どうぞごゆっくり)もいかかがですか?はせ参じいたします(笑)

  2. says on 2006.10.05

    本日のお昼は偶然に出会いビックリしましたね。世の中本当に狭いですね。
    私は相変わらず悩んでいますが、今回のブログをみて稚拙な私なりに考えさせられました。私はまだまだ「私」を主語にして語っています。少しでも自分の本当の声を発することができるように、自分にあったスピードで考えていければと思う今日この頃です。
    またお会いできるのを楽しみにしております。

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