院長先生の役割は?

歯界展望 メインテナンス・ルネッサンスで、「なぜ歯を失わないのか?」という問いが自ら発せられるようになるにはを書いた。つづいて、2.を愚考する。

今回の歯界展望は日吉歯科診療所の熊谷崇先生がご執筆されている。冒頭、次の文章が引用されていた。現ワシントン大学名誉教授のRoy C Page先生の論文からとのこと。

■歯科学研究と歯科臨床の未来
すべての医療従事者の目標はそれぞれの分野の疾患をなくすことである。歯科はこの目標を達成した数少ない分野であろう。今日では予防プログラムが実行され、齲蝕と歯周病の罹患率は減少し、診断法と治療法は全く新しくなり、病変を初期の治療しやすい時期に発見できるようになり、安全で効率の良い診断法、治療法がどんどん開発されるようになってきている。歯科臨床は大きく変動し、今なおどんどん変動しつつある。われわれが知っている歯科医療は過去のものになってしまうであろう。そしてその時はそれほど遠くない未来に来るであろう。この変動は決して歯科医の仕事を奪い取るものではない。歯科医の仕事をより有意義で価値のあるものにするものである。では将来の歯科医とはどのような姿であろうか。依然として齲蝕や歯周病のリスクの高い患者に対して治療を行っているであろう。この行為が完全になくなることはありえない。しかし、治療は歯科医の仕事のほんの一部でしかなく、予防と口腔保健管理に時間の多くが費やされる。

是非を論じられるほどの知見を持ち合わせていない。ただ患者の立場でうかぶのは、

「われわれが知っている歯科医療は過去のものになってしまうであろう」というわれわれと我々(=患者)の間に存在する格差をどのようにフラット化していくのだろうか?

という疑問である。というのも、「治療が歯科医の仕事のほんの一部になったら先生は何をしてくれるか?」ということを来院者がセルフイメージできるかというと私は首をかしげる。患者のマジョリティーは、齲蝕や歯周病のリスクの高い患者を治療している歯科医院を「歯科医院」だと思っていないだろうか?

その「歯科医院」のイメージを来院者が再構築するプロセスに、どのように医療従事者が関与するかが問われているのだと思うし、そう期待する。

なぜこのような愚考を重ねるかは、「自分の言葉で語る」と密接な関わりをもつ。Web屋の私が営業で歯科の先生からお話を伺うとき、患者の視点を失念しないようと意識する。そのとき、「予防」について論じられるときに、奇妙な違和感におそわれる。

ロジカルに説明できない「違和感」なので違和感としか形容できない。また、誤解のないようにテンプレート化しておくと、違和感は「善悪是非」からやってくるのではない。機能主義でありたいと望む私は「自分の健康観に合致しないとウェブサイトを引き受けない」と原理主義化していない。それでも、私が患者になって院長先生の話を聞いたとして、「じゃぁ、この先生は何をするのだろうか?」というイメージが描けない。折り合いがつけられない。私の稚拙な理解度に左右されるから仕方がない。とはいえ、そんななかでもクリアカットに描ける場面に遭遇する。それは、

「院長先生が自らの言葉で予防を語り、かつ、予防が技術化されておらず、さらに私の日常生活に置換できるようなメタファーやアナロジーを駆使して説明する」

時である。予防が技術化されていると、予防という手段が目的に転じてしまっているような印象をうける。たとえば、昨今の風潮として、Web屋はWeb2.0を口にする。書店に行けば、「Web2.0コーナー」が設置され、書籍のタイトルに"xxx2.0"が跋扈する。

とはいえ、ブロスフィアの一部やマーケティング業界、コンサルタントのなかで甲論乙駁のWeb2.0も、ひとたびその界隈から「外」へ出れば、その概念や技術は理解されない。「理解されない」のではなく、自らの言葉で語って伝えてない。だから、「トレンド」としてとらえられる。しかし、クライアントが実現したい目的を実現するために、Web2.0を自分の言葉で語る人は必ずいる。そして、その人が実践できた「コンテクスト」だけが淘汰され生き残る。それが、「理論」となり、後発の人たちに最適化されていくのだと思う。

ヒラカワさんが、街場の名経営者との会食で次のように述べられている。

人間の能力といったものを、人間が容易に判断できるわけがないということ、人間は筋道の見えない号令では動くことがないということ。これらは、考えて見れば当たり前の、人心の摂理である。常に己の進路を求めて止まず 而して尚方円の器に従うは 水なり。黒田如水の「水五訓」の一説である。しかし、このあたりまえのことを、当たり前のように遂行してゆく会社はすくない。大変に少ないといってもいいと思う。

失礼ながら「少ない」とは思わない。「あたりまえ」をあたりまえだと気づいた先人が自らの言葉を残してきた。「あたりまえ」をあたりまえだと気づけない愚生は「それぐらいの数」が「ほんとう」なのだと妄想する。ゆえに「あたりまえ」をあたりまえだと気づくことから始まるのではないだろうか。これは来院者である私にも求められる。その「気づきのプロセス」に医療従事者の方々がいてくださることを切望する。