独立されていかがでしたか?

昨夜、守山へ営業へゆく。提案書をひとしきり読んだ後、検討していただくことになった(最終のご返事は後日)。そして、院長先生は提案書をぱたりと閉じて、おもむろに口を開きはじめた。いつのまにかお話は医院経営に。そのなかで院長先生は

「何から手をつけていいのかわからない」

と口にされた。その瞬間、「ああ、すてきだなぁ」と感じた。無礼を承知で私が感じた理由をのべさせていただくと、「"何から手をつけていいのかわからない"ということがわかった」のがすてきだと感じた。厚顔無恥を承知で私の稚拙な経験と感度だけで申し上げると、「何から手をつけていいのかわからない」ということを認知するのは難しいのではないだろか?

「何から手をつけていいのかわからない」と知覚するのは、「何から」になる前の「何を」を模索しはじめることからはじまると思う。そして、模索するにいたる「きっかけ」がそこにはある。「きっかけ」とは「気づき」かもしれない。すでにその時点で、医院は漸進すべく舵を切った(と思う)。なぜなら、「"でなければならない"私の医院」から「"求められるかたちを模索しつづける"私たちの医院」へと視座が移動するから。

同時に、私は「出力の自家中毒」に気をつける。自分の経験から愚考するに、「何から手をつけていいのかわからない」と自覚したとき、恐怖から不安へと変化する。その後、不安を解消すべく「インプット」に没頭する。東に「これがいいらしいよ」と耳にすれば赴き、西に「増患するよ」と聞けば疾走する。が、インプットしたものをアウトプットできなければ発酵してしまう。また、発酵するものほど、4、5年前に風靡したノウハウ本(本棚に1冊はある)のように「古い」と感じてしまう。

インプットしたものを「交通整理」してアウトプットしていく。では交通整理を誰とするのか? 誰に「交通の中」に入ってもらうのか?

「何から手をつけていいのかわからない」地点への着地は今まで認識していなかった要素をカウントする。それらの要素のうち、「人」が至上である。スタッフはもとより来院者も「人」であり、それらの「人」ととの「関わり合い」が求められる。そうなれば、教育(もう教育といわないのかもしれない)の内容が変わり、医院の空間が再構築され、来院者からの問いも多様化していく。

—–と、もちろんこんなお話ができるほど疎通が図れているわけでない。なので私はただ現状をしっかりと聴かせていただいた。私ができることはただそれだけである。

そうこうしていたら提案書を説明した時間より会話の時間が長くなっていき、もうそろそろ潮時かなと思っていたら、院長先生から尋ねられた。

「独立されていかがでしたか?」

ほんとうに嬉しい瞬間だった。その一言を問いかけてくださった院長先生に感謝。そしてバス停へ猛ダッシュ。乗り遅れたら次のバスがくるまでにアニメ番組を1本視聴できてしまうので(笑)