有限個の単語から無限個の文を作成する

言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス)

『言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス)』 スティーブン ピンカー によると、母語が思考を枠づけるのではなく、人は生まれ持った本能による言語、心的言語と心的文法によって思考すると解きます。この一文にどんな反応をされますか?私は、『思考と行動における言語』 自体がわからないので、あまりピンときません。ただ、とんちんかんな方向と承知したうえで一つ心当たりはあります。それは、「ブログを書いている私」です。

言語とは人類のもっとも重要な文化的発明品である。言語は記号を使う能力が顕在化したものである。言語を獲得するという生物学的に前例を見ない出来事によって人類はその他の動物と永遠に袂を分かった。言語の影響は思考全般に及ぶから、言語が違えば現実を把握するやり方も違ってくる。[…]約束する。本書を読み終わったときには、いま羅列した考え方のすべてが間違っていると確信してもらえるはずだ。間違っている理由はただ一つ。言語は文化的人工物ではなく、したがって、時計の見方や連邦政府の仕組みを習うように習得できない。言語は人間の脳のなかに確固とした地位を占めている。言語を使うという特殊で複雑な技能は、正式に教えられなくても子どものなかで自然発生的に発達する。私たちは言語の根底にある論理を意識することなく言語を操る。誰の言語も質的には同等であり、言語能力は、情報を処理したり知的に行動するといった一般的能力と一線を画している。

『言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス)』 スティーブン ピンカー P.21

スティーブン・ピンカーは言語を「本能」とよび、クモが巣の作り方を知っているのと同じような意味だと断じています。巣を作れと脳が命じて授かる生来の能力ように、言語はホモ・サピエンスだけに与えられた生来の能力です。ただし、言語を特別な能力として生物学から分離して考察するのは早計で、特定の種がすばらしい能力を保有するのは生物学的に珍しくありません。

ピンカーの言説を私は頭でまったく咀嚼できません。しかし、身体で感じとったのが冒頭の「ブログを書く私」です。ノーム・チョムスキーが言語について指摘するように、私が発する文はほぼすべて前例がありません(同じ”言い回し”はあります)。常に単語をまったく新しい順に並べたもので、過去に話した文がカタログ化されているわけでもありません。他方、私が持っている単語は有限個です。母語についてすべての単語をもっていません。つまり、有限個の単語のリストのなかから、無限個の文を作成しています。

有限個の単語から無限個の文を作成するプロセスを体感できる行為が、「ブログを書いている私」です。どういうことか?「書く前の<私>と書いた後の<私>が違う」という事態に遭遇します。<私>と書けば大層ではありますが、「あれ、こんなこと書きたいわけじゃないのに」といった感覚です。「書きたいわけじゃないのに」と口にしますから、漠然とした認識があります。「書きたいことは別にある」までは到達していないけど、「別にない」は自覚している程度です。

この感覚は「話す」ときと異なるような気がします。「話す」ときも、「アレ、こんなこと話すつもりじゃなかったのに」は経験しますが、時と場合によっては、「わざと」であったり、「相手にあわせたり」といった「相手があって成立する言語」があるのだと思います。

「書く」には、「書く」前の段階があります(とりあえず「即興」は脇へ放置プレイ)。前段階として、心象化した表象を言葉に変換してゆくわけですが、かならずしも、その表象と言葉が一致しません。原因の大部分は、私の赤貧な語彙です。ただし、むかしより語彙が増えたから「一致」するかと問われれば、答えはいいえです。

心象化した表象をどうやって言葉にするのかが自分でもよくわかっていおらず、そもそも心象化している最中はどのような言葉で思考しているのかという疑問がよぎります。だから、「頭の中のモノ」を「書く」と「アレ?」がおこり、書き終えた後、「いったい、アレは誰なんだ?」という不可思議な現象がおきてしまいます。

とはいえ、これらの愚考も一言で片付けると、「私の頭が悪い」で済みます。それが認識でき、かつ、感覚だけは残るので据わりが悪いわけです。