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やるとやらないの会議

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「やる」を前提にしてコンセンサスを得られていれば会議は短く、その反対であれば会議は長くなるのでは?という話です。『決断の本質』ではコンセンサスを次のように定義しています。

コンセンサスとは、全員一致、または意思決定のすべての点に対する広範な同意、あるいは組織のメンバーの過半数による完全な承認という意味ではない。意思決定をするのがリーダーではなくチームだという意味でもない。人びとがその決定の実行に同意して協力するということがコンセンサスの意味である。その決定に完全に満足しなくても、人びとが最終的な選択としてそれを受け入れていればよいのだ。『決断の本質』 P.35

議論の最中でいかなる対立があっても、一度決定された行動方針に対しては「やる」というコミットメントを課すことができるかどうかではないでしょうか?

このコミットメントがくせ者です。ある議題について、「私はAだけど、会社はBだ」という行動方針が決定されたとき、「私」は「無関心」もしくは「やらない」に転じるケースに心当たりがありませんか。この場合、コミットメントしたわけでなく、「自分の意見が正当であって、それを是としない会社に非がある」と主張するために会議に参加しただけです。そうではなく、「私」は「やる」という行動に移すために何が必要なのかを「考える」フェーズへの移行を意味します。それには「私はAだけど、会社はBだ」という事実を受け入れるよう求められます。

そして、「会議で決定された行動方針」が「いかなる理由をもって決定されたかの根拠」を徹底的に理解して共有する必要があります。そのときも、「やる」が前提です。

なぜ、「やる」が前提でないと問題なのか?それは、「やらない」を前提にしている現実を自己のなかで認知していない「私」がいるからです。そういう「私」は、議題について「〜だからできない」とか「〜でなければできない」という意見を口にします。それらは、「自分と会社の現状をクールに査定して無駄や要素を排除した上で能力的に困難だ」という主張ではなく、「やりたくない」というニュアンスを含んでいるおそれがあります。

つまり、「やらない」が暗黙の了解になっていて、「やりたいくないための正当な理由」を探るために会議をしています。

会議で決定する行動方針はひとつであっても、そこに至るプロセスは多様性に彩られています。その多様性を否定するのではなく、多様化した認識を相互に抱えたまま、対立の原因を表出させます。

これには「私は私、会社は会社」ではなく、「私は私、だけど会社とどう折り合いをつけるか」という「他者」を起点にした冷静なふるまいが求められると愚考します。

あくまで経験則だけで愚考すると、「私は私、会社は会社」の人が集まっている組織ほど、会議が多く、かつ長く(認知的対立よりも感情的対立が多分に含まれる)、「私は私、だけど会社とどう折り合いをつけるか」という人が集まる組織では、ブレインストーミングは多いけど会議は少ない、かつ短いというような気がしないでもありません。

う〜ん、自分でも何を書いているのかいまいち理解できていません。やっぱり頭が悪いと凹ますね。まぁ、愚考です。

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2 Comments

  1. Eさんコメントありがとうございます。

    拙劣なエントリーに何かしら感じとっていただいて恐縮です。Eさんが指摘くださった「無意識」という言葉にはっとさせられました。難しいですね。また「議論にならなない議論」をしましょう。そこから何かを得られるのではと期待して(笑)

  2. says on 2006.10.24

    何か当社の会議の様子をリアルタイムに見ているようなコメントですね。
    私も会社とどう折り合いをつけるかを考えているつもりでも、「私は私、会社は会社」というスタンスを無意識に取っているのかもしれません。
    非常に考えさせられるエントリーです。また、この辺りのことを議論させていただければ嬉しいです。ただ、私も相当頭が悪いので議論になるかわかりませんが(笑)

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