ユニークさを承認する

「対話」とは、対面している相手の問いかけが、本質的に未知のものであり、その相手以外の誰によっても発されることのない、絶対的に代替不可能なものであることを認知する、という事況のことである。求められているのは、「正しい回答で応じる」ことではなく、今、まっすぐにこちらを向いて、問いを発して来る人間の「ユニークさを承認する」ことなのである。『レヴィナスと愛の現象学』 P.117

この一文が「スタート地点」のような気がする。だから、私はいまだ「スタート地点」にすら立っていない。「未知」とは何か?「代替不可能」とは何か?「承認」とは何か?と一つ一つの言葉を吟味する。結果、「対話」をまったく理解できていない自分を認識する。

「未知」であるならば、「既知」であると判断してしまうのはなぜか?「代替可能」と察知したり、関心の範疇ではないと即断してしまう。「誰が」に感情のスイッチがオンされてしまう。「何を」に五感が作動しない。

そうではない。

「ユニーク」そのものに焦点をあてる。車に興味がない私にむかって車の問いが発せられたとき、私はその場にいながらにして「離脱」する。関心をもとうとするから範疇を固定する。その範疇を形成するのは私である。関心をもつのではない。「承認する」という。「人」と「問い」を混同してはならないと思う。私が所有していない文脈から発せられる車の問い。「私」が取捨選択する「問い」ではなく、「私」を通りぬけて「眼前の人」に帰還する問いである。私には制御できない。しかし、同時にそれは「私」を疎通しないと発せられない問いではないだろうか。ゆえにユニークとは相手から発せられ、かつ私を通過するという二重の意味を伏流していまいか。

もしそうだとしたら、何かを議決するとき、対話が可能なのだろうか? 商業では一つの事象に一つの意思を決定するように求められる。当行為は「ユニークを承認する」の対極にあるのか、あるいは中に含まれるのか、それとも位相が違うのか、私にはわからない。